12月10日のブログの続き
厚狭毛利家当主が謹慎処分を受けたまま山口から厚狭に帰還した慶応元年(1865)閏(うるう)5月の記録の要約続き
・当主の直書(じきしょ)示達を受け家臣のなかで議論が沸騰した。このため家臣全員を呼び出し連名で異存が無いことを申し出させた。
・領主が謹慎中なので諸々の軍事教練(大砲含む)、豊作祈願の神社の田んぼへの出張などをどうするか問い合わせが有り普段通りとするよう指示された。
・四境戦争(第二次長州征伐)に向け農兵を一層取り立てるためその条件について地方(じかた・村役人)より申し入れがあり基本申し入れ通りとして以下を示達した。
『(農兵に応募すると)永代苗字を許す、また嫡子まで帯刀を許す。
稽古日は昼飯を提供、出陣中は日ごとに米5合を支給。
農兵を好まぬものは足軽雇いにして年米1俵、出勤日は年2石を日割り計算で支給。
稽古や出陣中は地下の労役等を免除する。
等々。』
・萩より飛脚到来、昨日(6月4日)厚狭毛利家の親類衆が城へ呼び出され、旦那様(当主)の謹慎処分が解けたとの知らせであった。藩主名でその示達と共に厚狭に居て軍制や領政に邁進するようにとの沙汰書が付属している。
・謹慎が解けたことが領内の地下(じげ)へ徹底された。
🔘謹慎処分が発せられたのがいつかはっきりしないが、仮に御前会議が行われた頃からとすると約5ヶ月間の処分期間であったと推定される。
🔘何れにせよ今まで俗論派として活動、従軍していた家臣達からは、今日から敵であった藩政府に従えと言われても大きな不満があったであろうことは「沸騰した」という表現からも容易に想像がつく。
当主が謹慎中に厚狭に帰ることを許されたのも、挙国一致の為この沈静化が目的のひとつであったに違いない。
🔘この程度で終わったのは厚狭毛利家が毛利元就の八男・毛利元康(末次元康)を家祖として、毛利一門六家の第三席という家柄であったことが最も大きな要因だろうと思われる。
🔘四境戦争に対応するための軍制改革で兵力増強のための農民の動員へ向け、色々なインセンティブの工夫がされていることが分かる。
要は厚狭毛利家として生き残るため藩政府の要求に必死に応えざるを得ない当時の状況を写し出しているようにも見える。
この後しばらく苦しい忍従の日々が続く事になる。
【本を手に 冬の街見ゆ カフェの隅】
🔘健康公園のくぬぎ林辺りでは落ち葉の量が多くなり、林の上から下へ吹き下ろして嵩高くなったものを処分する作業が始まっている。