中山忠光の暗殺事件

日経新聞に連載中の辻原登さんが陸奥宗光の青春を描く「陥穽(かんせい)」では主人公・陸奥小二郎は勝海舟の神戸海軍操練所の開設入塾に向けて勉学に励もうとしている。

この時代背景を表すなかで公家・中山忠光の暗殺が描かれている。この暗殺事件は我が長州藩にとって長い間タブーとされた事件であるが、近年少しずつ取り上げられるようになってきた。

忠光は権大納言中山忠能(ただやす)の子息で同母姉が明治天皇の生母である、従って忠光は明治天皇の叔父に当たる。

早くからの急進的な攘夷派で、文久3年5月10日攘夷実行の勅命を実行すべく長州藩関門海峡で外国船を砲撃した際は、久坂玄瑞等に担がれて光明寺党の名のもとに参画した。

(この時の光明寺党の急進的な動きが、当時下関総奉行を勤め外国船打ち払いの総指揮をとっていた厚狭毛利家当主・毛利能登の失脚につながる)

その後京に戻り過激浪士などを集め、攘夷の先駆けとしての組織・天誅組を結成、大和五條の幕府代官所に討ち入り挙兵した。

天誅組幕府軍によって敗北、忠光は長州へ逃れ、藩では身柄を支藩である長府藩に預けるが、折しも藩政府は政変で政権が正義派(急進倒幕派)から俗論派(守旧派)に代わり、幕府の目を気にする立場から忠光の存在が邪魔になってきた。

元治元年(1864)11月15日忠光は長府藩領内で暗殺され藩では病死と発表された。享年20歳であった。

長州藩ではこの後高杉晋作の挙兵をきっかけにした内戦を経て正義派政権となるが、もはや取り返しがつかない事態で、長く表沙汰にすることをはばかられた。

忠光は長府潜伏中に娘を得る、娘は中山家に引き取られた後嵯峨家に嫁ぐ、その孫の浩(ひろ)は中国・清朝ラストエンペラー満州国皇帝になった愛新覚羅溥儀(あいしんかくらふぎ)の弟・溥傑(ふけつ)に嫁いだ。

🔘一日一句     

施設の園芸サークルの畑では玉蜀黍(とうもろこし)がボチボチ収穫期を迎えている。

先日の台風で折れ曲がりかけて辛うじて立っているものもある。子供の頃畑に植えられていた景色を思い出したがその頃の呼び名は唐黍(とうきび)で、やはり台風には弱かったような記憶がある。

 

唐黍(とうきび)が暴風(かぜ)を耐え抜き斜め立ち