「暗殺の幕末維新史」中山忠光暗殺①/立神あれこれ

一坂太郎著「暗殺の幕末維新史」中公新書版を読み終えた。

著者は長州藩の維新史に格別関心の深い歴史家で、奇兵隊高杉晋作吉田松陰久坂玄瑞などに関する他多数の著作がある。

確かにこの時期は暗殺が横行した時代で、外国人、安政の大獄関連、勤王・佐幕両派の争いなど著名なものだけでもたくさん挙げることが出来るが、暗殺未遂まで含めるとペリー来航から王政復古までのわずか十数年の間に100件を超す事件が発生しておりこれらを追跡することで著者は「明治維新を闇の側から辿ってゆきたい」と前書きに書かれている。

我が長州藩関連でも井上聞多(もんた・馨)暗殺未遂、世良修蔵暗殺、大村益次郎暗殺、広沢真臣暗殺、大楽源太郎暗殺等数あるが、ここではあまり世間に知られていない長州支藩長府藩が関与したとされる公家・中山忠光暗殺事件について書いておきたい。華々しい活躍が表に出勝ちの長州藩維新史の裏の部分と云える。

実はこの事件のことを数年前に大阪教育大学公開講座でご一緒した山口県人から聞いた際、最初は信じられずガセネタかと思い調べてみて、事実と知って愕然としたことがある。

中山忠光の事件を書く場合、その前段の「天誅組」事件に触れざるを得ない。

文久3年(1863)8月13日、大和(やまと・奈良県)行幸(ぎょうこ)の詔(みことのり)が発せられた。長州藩や急進攘夷派公家が結託して天皇自身が幕府に変わって異国排斥・攘夷の指揮を執るいわゆる親征を企図したものである。

この動きに同調してその先鋒になろうとして土佐浪士などが結成したのがいわゆる「天誅組(てんちゅうぐみ)」で当時19歳であった過激攘夷派公家・中山忠光を首領に祭り上げた。

中山忠光の姉・中山慶子(よしこ)は孝明天皇の子・明治天皇の生母であり忠光は明治天皇の叔父に当たりその事がこの後の事態に影響していく〉

天誅組は大和の五條にある幕府代官所を襲撃して代官などを殺りくするが紆余曲折の末結局幕府の追討を受け壊滅、中山忠光は数名の供と脱出して長州大阪藩邸でかくまわれた後海路長州へ亡命した。

(この後の展開は字数もあり後日に書くことに)

 

🔘来月の句会の兼題(けんだい)は「神の旅」、神無月に関連した出雲への旅を扱った題と思うがこの題を聞いて直ぐ思い浮かんだのが田端義夫さんの懐メロ「島育ち」。

♪︎♪︎朝は北風(にしかぜ) 夜は南風                                           沖の立神ゃ沖の立神ゃ また片瀬波♪︎♪︎

 

【神の旅  奄美立神(たちがみ) お立ち寄り】

 

奄美地方には海の楽園・ネリヤカナヤ(沖縄ではニライカナイ)の言い伝えがありその神が海からやって来る際の一時立ち寄るのが立神と呼ばれる各所に散在する岩礁とされている。

 

🔘施設の庭、色がきれいな小さな野路菊(のじぎく)たち

(菊科の名前は施設の職員さんに教えて貰った)