「天狗争乱」

NHK大河ドラマ「青天を衝け」では主人公の渋沢栄一とならんで水戸藩出身の一橋慶喜が準主人公のような廻りで物語が進んでおり現在、水戸藩の悲劇とも言える「天狗党の乱」が映し出されている。

水戸藩徳川御三家でありながら不思議なことに徳川光國(黄門)以来の尊皇思想の家柄で、幕末9代藩主・徳川斉昭の時代になるとその思想に攘夷が加わり、天皇中心主義で外国勢力を打ち払うべしといういわゆる尊皇攘夷(そんのうじょうい)の総本山のようになってしまった。

従って順調に物事が進んだと仮定すると明治維新は薩摩(鹿児島県)長州(山口県)土佐(高知県)肥前(佐賀県)ではなくその筆頭に挙げられていたのは水戸(茨城県)だったかと思える。

そうならなかったのは水戸藩内の党派抗争の激しさでありそれを代表する幕末の大事件が「天狗党の乱」と思われる。この事件についておよそのことは知っていたが良いきっかけと思い、史料に忠実なことで定評のある作家・吉村昭氏の作品「天狗争乱」朝日新聞社刊 を近くの図書館で予約し読み終えた。

斉昭から第10代藩主慶篤に掛けての時代、水戸藩では
・比較的高い家格の藩士が集まる門閥
尊皇攘夷を掲げ即時外国人を打ち払うとする激派
尊皇攘夷ながら冷静に事態を見極めようとする鎮派
の3派に分かれ対立していた。

門閥派は身分の低い尊攘派が急に威張り出したとして蔑み天狗派と呼ぶようになったが特に激派では天狗は義勇に通じるとして自ら天狗と称するようになり激派=天狗が定着した。

尊攘激派は長州藩などと連絡を取り、全国に先駈けて攘夷実行を幕府に迫る名目で元治元年(1864)3月水戸藩常陸(ひたち)国筑波山(茨城県)で挙兵し天狗党と名乗った。
初期の軍用金集めや、天狗党の名をかたる者達の影響もあり地域民衆の反感を買い、水戸藩や幕府を敵にする形になり関東各地で戦乱となる。

これに乗じて水戸藩政府は門閥派が占めることになり幕府と結んで徹底した追討を指向する。

この為天狗党約1000人は事態を打開するため京都にいる水戸藩出身禁裏御守衛総督(きんりごしゅえいそうとく)・一橋慶喜を頼るべく幕府や各藩の追討軍を避けながら苦難の大行軍を実行するが、京を目前にした越前(福井県)で慶喜の拒絶に合って降伏する。

一橋慶喜はこの後、加賀藩等の忠告を振り切り、自らを頼った天狗党水戸藩門閥派と結ぶ幕府追討軍に引き渡す。
この結果敦賀での鰊倉(にしんぐら)集団幽閉、352人斬首、などが実行され水戸では指導者の家族3歳の子供までを含み処刑された。

草彅剛さんには申し訳ないが、個人的に私は一橋慶喜という人物には以前から大いに疑問がある。
ひとつはこの天狗党への対応、もうひとつは鳥羽伏見の戦い後、部下を置き去りにして大阪から江戸へ自分だけ軍艦で逃げ帰ったことである。

何れにしろこの過酷な処置は、幕府や水戸藩更に一橋慶喜の世評を地に落とし、滅亡への道を自ら歩む第一歩となった気がする。
またこの内部抗争は水戸藩を幕末の主役から一挙に傍観者の立場に置いてしまうことに繋がる。

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