「幕末雄藩列伝」①水戸藩と長州藩に見る派閥抗争

伊東潤著「幕末雄藩列伝」角川新書刊  を読んでいる。著者は最近色々な歴史番組にも顔を見かける気鋭の歴史小説家で、私も水戸藩天狗党の争乱を扱った「義烈千秋  天狗党西へ」等を読んだことがある。

この本が取り上げているのは300諸侯と言われた諸藩の内、幕末にその去就が注目される14の藩で良くも悪くも危機の時代の決断がどのような結末に至ったかを書いている。

この本を手がかりに私自身が興味を持つ事柄を二三書いておくことにしたい。

まず最初は幕末に過激な攘夷思想先駆けの双璧となった水戸藩長州藩のことである。

天保元年(1830)水戸藩は9代藩主・徳川斉昭の就任以来海防意識に目覚め攘夷運動に邁進する。水戸光國以来の尊皇思想と相まっていわば全国の尊皇攘夷の総本山のようになってしまう。

水戸藩士が中心になって実行した桜田門外で井伊大老が暗殺された事件の同年、万延元年(1860)斉昭が死去すると藩内で苛烈な派閥抗争が勃発する。

・過激な尊皇攘夷派・天狗党

徳川御三家を意識した佐幕派・諸生(しょせい)党

・穏健尊皇攘夷派・鎮派(ちんぱ)

元治元年(1864)天狗党の挙兵をきっかけに、諸生党を支持する幕府、鎮派を支持する支藩等を巻き込み文字通り血で血を洗う抗争が始まる。

天狗党水戸藩出身で京にいる徳川慶喜に嘆願しようとして西上、越前敦賀で352人が斬首、諸生党は水戸に残った幹部の家族子供まで処刑した。

その後幕府が崩壊すると天狗党生き残りが報復に出て諸生党を逃亡先まで追い詰めことごとく討ち取る。

この抗争では相手を根絶やしにするようなやり取りの結果、有為な人材のほとんどを失った水戸藩には明治新政府の席は全く無くなっていた。

天保10年(1839)3449人の名前があった水戸藩の家臣は慶応4年(1866)には892人に減っていたそうで実に凄まじい派閥抗争である。

一方西の尊皇攘夷の本山、長州藩にも派閥抗争があった。

・過激な尊皇攘夷派・正義派

・穏健佐幕派・俗論派

・中立派・鎮静会

禁門の変や外国船砲撃で敗戦に至った尊攘派を追って実権を握った俗論派は、責任者の3家老4参謀の首を幕府に差し出したがそれ以上の犠牲者は出さず、また内戦・太田絵堂の戦いで勝利した正義派が行った処分は斬首が俗論派の首魁(しゅかい)とされた椋梨藤太(むくなしとうた)一人とされている。

実は私がふるさとの厚狭毛利家の歴史を追いかけて不思議に思ったひとつが、当時の嗣子・毛利宣次郎が太田絵堂の戦いで俗論派に立ち、諸隊追討総奉行いわば総指揮官でありながら敗戦後切腹などの処分を受けずに厚狭に居住していることである。(勿論厚狭は暫くの間日蔭の身に置かれたが)

尊皇攘夷の双璧であった水戸藩と違う派閥抗争の収拾のあり方、挙国一致へ向けた自制が四境戦争、戊辰戦争を勝ち抜き、明治維新を迎えて席に座ることができたことに繋がっていると思っている。

派閥抗争は人間生活のなかでやむを得ない面もあるがその対応の良し悪しがその組織の将来を決定付ける場合がある。

 

🔘自然や植物には知らなかったことが多すぎる。

 

クヌギの葉  虫瘤(こぶ)宿し  風辛し】

 

【虫瘤に  樹は歓びか  悲しみか】

 

いつも歩く公園にはクヌギやナラの樹が沢山あり時折ドングリ等の様子を見ている。

たまたま昨日その内の1本を見上げると葉っぱの裏に丸い玉が沢山付着しており最初はカタツムリの子供と思ってしまった。

表面が少し毛羽たっているようで写真を撮って調べて見るとこれも「虫こぶ」のようでクヌギの葉を好むクヌギハマルタマバチの産卵にクヌギの葉が反応してコブになり幼虫をくるんでクヌギハマルタマフシという虫こぶに変成したものらしい。

10月3日のこのブログで形は全く違うがヨモギの虫こぶのことを書いた。

拡大した一個約直径3~8mm位の大きさ

🔘それにしても植物と虫の組み合わせは本当におかしなことを引き起こす。