長州藩士・広沢真臣(ひろさわさねおみ)

研究者ではないが唯歴史が好きなだけで山口県地方史学会に入れてもらっている。

そのため年2回その会誌「山口県地方史研究」が送られて来るので楽しみにしている。

最新第128号の研究分野に神奈川県在住・下田悠真氏の「明治維新広沢真臣」という論文が載っていた。

私は山口県の生まれなので明治維新史や当時の長州藩士などにも当然興味があるが、広沢真臣はその中で私が良くわからない不思議な人物の一人である。

明治政府成立後明治2年(1869)維新の功労者に対し賞与として「賞典禄(しょうてんろく)」が下賜されたが、旧大名や公家を除く藩士クラスでは、薩摩・西郷隆盛の2000石が最高で、次いで長州・木戸孝允広沢真臣、薩摩・大久保利通の各1800石がこれに続く。

すなわち維新の三傑といわれる人々と同程度の功績とされており徴兵制を立案して陸軍の創始者とされる大村益次郎の1500石を上回る。

広沢は尊皇攘夷派ではあったが正義派と呼ばれた松下村塾系には連なっておらず藩校・明倫館に学び桂小五郎久坂玄瑞などのもとで京都でも働いていたが藩内の俗論派、正義派の派閥抗争からは身を引いていた。

この論文のなかで下田氏は明治維新における広沢の政治的役割を以下の4点に要約している。

・「討幕」という戦略に向け薩長両藩や公家の意志を共有化させる働き。

長州藩の重役として初めて新政府に入り、取り次ぎを勤めると共に長州藩兵の戊辰戦争参戦を進めた。

・新政府や官軍の役職を意図して辞退して薩長両藩の独裁でないことを世に示した。

版籍奉還のために山口藩に情報を伝え実現後は自身の国家構想を示すことで納得理解させる役割を果たした。

本来木戸孝允と共に政府内で長州閥の頂点に立つべき位置に在ったが、明治4年1月私邸で暗殺され今もって犯人が特定されていない。

この論文を読ませて貰ったことをきっかけに広沢真臣の関係資料が目につけば注意深く見ていこうと考えている。

余談だが実は薩摩にも同時期不思議と思える人物・小松帯刀(こまつたてわき)がいて興味を持っている。

 

【虫と鳥  デュオを背に聞き  秋歩く】

 

🔘施設の庭の赤い花、パイナップルセージと思うのだが?