なぜ薩・長・土・肥なのか/革新活動の必要条件

ふるさとが山口県の厚狭であるところから、つい長州藩や厚狭毛利家などに興味を持ちこのブログにも書いてきたが、やはり長州といえば明治維新を成し遂げる重要な役割を担ったことが第一に語られる歴史がある。

その明治維新に寄与した雄藩として教科書などでは薩・長・土・肥として挙げられることが多い。

薩摩藩(鹿児島県72.9万石、島津家維新後公爵)、長州藩(山口県36.9万石、毛利家公爵)、土佐藩(高知県20.3万石、山内家侯爵)、肥前藩(佐賀県35.7万石、鍋島家侯爵)である。

維新へと至る道は各藩で様々に異なり、それぞれの維新史は語り尽くせないが、細かい経緯はさておき大きな括りでこの4藩の持つ共通項を考えてみた。

①東国政権・徳川幕府からみた場合全て西国の外様大藩・国持ち大名である。

・西と東の戦い最終章

②何れも海に面しており外界への窓が開かれている。

・薩摩は琉球王国(朝貢貿易)を実質支配しまた坊津(ぼうのつ)では密貿易を行っていた。

・長州は赤間関(下関)という拠点港を持ち長崎ともつながりがあった。

・土佐は黒潮が洗う地で幕末ジョン万次郎が出た。(太平洋諸国・台湾・琉球・薩摩・土佐・紀伊・房総を繋ぐ黒潮文化圏)(舟運に於ける潮の重要性)

肥前鍋島藩は長崎警備が役目のひとつであった。

③各家共戦国時代に大きく膨張した歴史がある。これによって人材の血の囲い込みや精神的基盤が確保された。

・薩摩島津氏は一時九州のほぼ全域を支配した。(全住民に対する武士階級の割合が全国平均の約5倍の25%を占める)

・長州毛利氏は一時中国地方八ヶ国を支配した。(農民にも多数の旧家臣)

・土佐は元々長曽我部(ちょうそかべ)氏が支配し、関ヶ原後に山内氏が入部、長曽我部侍は山内氏の下に組み込まれたが、長曽我部の時代一時四国全域を支配した。

肥前鍋島氏は元々龍造寺(りゅうぞうじ)家の家臣筆頭家であったが龍造寺の衰退に伴い豊臣、徳川両家に禅譲を認知された。龍造寺の時代鍋島氏を先頭に九州の西半分を手中にした実績がある。

開明的な藩主若しくはリーダーが存在し時代の流れに対応した財政改革(米穀経済からの脱皮)や洋式化(植民地化への対応)を進めた。

薩摩藩 島津斉彬 調所広郷

長州藩 村田清風 周布政之助

土佐藩 山内豊信(容堂) 吉田東洋

肥前藩 鍋島直正(閑叟)

⑤若手などを取りまとめる組織的な動きがある。

薩摩藩  精忠組

長州藩  松下村塾

土佐藩  土佐勤皇党

肥前藩  楠公義祭同盟

🔘以上のことから、内外の情勢を理解しその時代に応じた変化が出来た藩が次の時代の主役となった訳で、ここから物事を革新的する場合の必要条件の一部を読み取ると以下のようなことが云えるのではないだろうか、もちろんこれらは絶対条件ではない。

①それまでの体制から離れた存在で対立軸を持っている、

②それなりの勢力を持ち経済的な裏付けがある、

③精神面の拠りどころを含めた人材が充実し内外の情勢を理解出来ている、

④優れたリーダーと若手集団が存在する。

⑤外への窓が開いている、

 

思案して歩く背叩く青時雨】

 

🔘施設庭園のユリの仲間