「鯨海酔侯(げいかいすいこう)」と「そうせい侯」

12月13日のこのブログで幕末の土佐藩主・山内容堂のことを研究した「山内容堂の軌跡」を読んだことに触れたが、この事に関して少し書き残したことを補っておきたい。

私の生まれた長州(山口県)を統治した毛利藩では幕末有事に藩主の座にあったのは第13代毛利敬親(もうりたかちか)で、吉田松陰を若い時分から見込み登用したが、一部家臣から「そうせい侯」と呼ばれた。

政治姿勢として、藩論や意見が上申されると例え今までの方針転換であっても基本的に「そうせい」と是認してしまう、いわばボトムアップ型リーダーの典型であった。

しかし同じ幕末には四賢侯(よんけんこう)と呼ばれた
薩摩藩 島津斉彬(しまずなりあきら)
宇和島藩 伊達宗城(だてむねなり)
土佐藩 山内容堂
・越前藩 松平春嶽(まつだいらしゅんがく)
等がおり、皆その見識を期待されトップダウン型の藩主として中央政界に出て幕末史に名を残した。

その内の一人山内容堂はその典型で、初めてのお国入り(藩主として江戸で認められ領国へ入ること)を旧来から慣行になっていた駕籠でなく騎馬で行うなど、豪快な気質で自らを「鯨海酔侯」と称し、その酒量は半端なものでなく時に政治活動にも負の影響があり健康にも悩まされる。

その気質から下級家臣が徒党を組んで「土佐勤王党」を結成し尊皇攘夷の政治活動をすることが許せず、弾圧に走り首領の武市半平太切腹させ、坂本龍馬など多数が脱藩することになる。

これらのことから土佐藩大政奉還では主役を演じたものの、幕末局面の大転換点・鳥羽伏見の戦いに自主参加程度に留まり、終始薩摩 長州の補助勢力に終わってしまう。
この為、明治新政府のなかでも土佐は主流となることが出来ず自由民権運動などに活路を見出だすようになる。

作家・司馬遼太郎さんは山内容堂を主人公に「酔って候」と言う作品を書いたがその中で土佐藩士・武市半平太にこう語らせている。
『長州毛利侯が如くに凡庸(ぼんよう)にましませば藩も動かしやすい。激動期には明君(めいくん)ほど害をなす』
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「そうせい侯」と「鯨海酔侯」どちらがどうだとなかなか難しいが対照的なリーダーのあり方に見える。

余談ながら土佐高知県の酒に「酔鯨」と言う銘柄があり大阪天王寺の居酒屋で友人と出掛けた際に出合った。これは山内容堂が自ら号とした「鯨海酔侯」からとられたもので、鯨の泳ぐ土佐の太平洋を前に鯨の如く酒を飲む豪快な人物像が良く表現されている。

山内容堂はもし戦国時代に生まれておれば、同じ土佐出身で四国を統一した長宗我部元親(ちょうそかべもとちか)に匹敵する英雄になったのかも知れない。

◎図鑑を見てもよく分からないが、歩きで見かけた花
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