長州藩士・長井雅楽(ながいうた)/中秋の名月

幕末維新の激動のなかで滅亡の縁にも立たされた長州藩には非業の死を遂げた有為な士が多く出た。

あまり世間には知られていないが、藩士の中核である大組(おおくみ)士の出自であった長井雅楽もその一人で、その才を多くから嘱望されながら政治的な立ち位置から死を迎えることになった。

安政5年(1858)藩主毛利敬親の信任厚く、直目付(じきめつけ)という要職に就く。
文久元年(1861)当時国内で外交政策に関して政治対立が激しくなるなか、藩主の求めに応じその政策「航海遠略策(こうかいえんりゃくさく)」を建白し当時の藩論とされ中老職に抜擢。
更には幕府老中、朝廷にも周旋しいわば国論として認められた。

「航海遠略策」の骨子は次の通りである。
鎖国攘夷は日本の歴史からみても異端であり世界の現実とも適合しない。
日本はすすんで開国し、世界を圧するような商船隊を作って交易し得た富で武力を蓄えそれによって国家を守る』

明治維新後政府がすすめた政策を先取りしているような内容で先ずは国力を充実させることが肝要と説いている。

ところがこの後に攘夷論が沸騰し、幕府老中も交代、朝廷も航海遠略策の文言が朝廷を軽んじているとして問題視し始める。
長州藩でも長井の政敵とも言える松下村塾系の藩政府になり、「航海遠略策」を打ち出した翌年文久2年(1862)になると同じ藩主は長井雅楽切腹を命じる。

長井は堂々と切腹したがその心中穏やかざるものがあったに違いない。
世に坂本龍馬の「船中八策」なるものが有名だが、長井雅楽坂本龍馬の遥か先を行っていた。

抜きん出た構想や思想はその出された時期によって大きく異なる運命をたどることになる。

当時の藩主・毛利敬親は陰で「そうせい公」と言われた。
藩内の力関係が変わり政権交代の度に出される政策や反対派の粛清(しゅくせい)についてほとんど「そうせい」と了解することからついたあだ名で、この「そうせい」が明治維新を引き寄せたと言えなくもないが、長井雅楽切腹処分などは余りにひどい「そうせい」としか言い様がない。


🔘昨日は中秋の名月、来月の句会のテーマが「月見」なので是非とも見なければと思ったもののPM6時頃から8時頃まで雲に隠れて全く見えず。
と諦めかけてベランダに出たところPM8時過ぎに念願の十五夜の月を東の空にようやく見ることが出来た。

【中秋の 値千金 雲間より】

【満月が 雲より出でて 見得を切り】

【故郷(こきょう)でも 同じ名月 見てるらし】




ついでに当日の夜景


山口県在住の同級生からLINEで頂いた