厚狭毛利家代官所日記No54慶応3年(1867)②「山口移鎮」と屋敷地の拝領

厚狭毛利家代官所日記の慶応3年2月30日から3月1日にかけて、山口での藩政府体制の確立が進み、有力家臣屋敷の萩からの移転が進められる一環として、厚狭毛利家に対して以下のような屋敷地の引き渡しがなされた記録が出てくる。

・拝領地は畠2反分(20a)でその他に8畝25歩(8.25a)を買い増した。

・引き渡しのため立ち会いに2月22日より厚狭から家老以下5名が出張、無事済ませて帰着した。

・この時の藩からの立ち会いは町奉行以下地方(じかた)役人までの名簿の記録がある。

🔘毛利家では関ヶ原の敗戦で西中国地方120万石から現在の山口県に当たる防長二州36万石に押し込められたがこの際城をどこに築くかが課題で、山口、防府、萩が候補であったが幕府の意向もあり北に偏った萩に落着した。

🔘文久3年(1863)5月10日朝廷と幕府が決めた攘夷実行期日に長州藩は攘夷実行の先駆けとして下関海峡の外国船を砲撃した。

この報復攻撃を想定した場合、海沿いの萩では防衛上問題があり、またこの後の時代を睨んで同年に藩域の中央に当たる山口に藩庁を移転した。これを「山口移鎮(いちん)」といい藩庁を「山口政事堂(せいじどう)」と称する。

これに伴い新しい城郭や都市計画が作られ建設が進められるが、元治元年(1864)の第一次長州征伐の講和条件が新しい城郭の破却と藩主の萩帰還であり計画は一時中断になる。

その後高杉晋作の挙兵に始まる内戦を経て慶応元年(1865)2月藩論が「武備恭順」に統一され正義派(倒幕派)主体の藩政府になると幕府に遠慮することなく「山口再移鎮」が実行推進されることになり明治維新まで続く。

🔘代官所日記によると山口の厚狭毛利家の屋敷地が決まるのが慶応3年の初め頃であり山口の都市計画は激動の時代のなかで比較的ゆっくりと進んでいたことがわかる。逆に言えば大事業でありゆっくりとしか出来なかったとも云える。

 

北摂に雲横走り雨水かな】

 

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