厚狭毛利家代官所日記⑱文久元年③異国船あれこれ

江戸時代ふるさと厚狭周辺を給領地にした厚狭毛利家の民政記録を読み進めている。
厚狭地域の内、最も瀬戸内海側にあるのが梶浦(かじうら)で厚狭川の河口域にあり古来から漁業中心の集落であった。

地形上関門海峡を見通せる位置にあり、代官所日記の文久元年(1861)頃になると梶浦の村役人からの、関門海峡と瀬戸内経由上方(かみがた・大阪方面)を往き来する異国船の通報が急に増えてくる。

国籍は分からないが9月~年末迄の通報記録を代官所日記からリストアップすると、
・9月30日 1隻 下関より上方へ
・10月11日 1隻 上方より下関(方面)へ
・10月12日1隻上方より下関へ
・10月25日1隻上方へ
・12月15日1隻下関瀬戸口より上方へ
・12月17日1隻上方より下関へ
・12月22日1隻上方より下関へ

幕末の外交の経緯を見ると以下の通りであり、
代官所日記が書かれた文久元年(1861)は、日本が幕府主導で一度開国した後、万延元年(1860)の桜田門外の変で井伊大老が暗殺されると、朝廷の意向をふまえて再び攘夷実行に転換する微妙な過渡期・転換期に当たっている。
この為長州藩内でも異国船の往来には神経をとがらせている様子がうかがえる。

安政元年(1854)日米和親条約締結、下田函館開港
同年蘭、露とも和親条約締結
安政4年(1857)幕府は諸藩に外国との通商を認める
安政5年(1858)日米修好通商条約締結 神奈川長崎新
潟兵庫が開港
・同年 朝廷が条約締結を違勅とする
・万延元年(1860)桜田門外の変
文久2年(1862)朝廷、幕府、攘夷の実行を決定
文久3年(1863)長州藩攘夷実行、下関通過外国船砲撃

この後長州藩は諸藩に先駆け攘夷を実行するとして、文久3年(1863)5月10日下関海峡での異国船砲撃を行い以後激動の時期を迎えることになる。

この時の長州藩軍を指揮したのが馬関(下関)総奉行を拝命した厚狭毛利家当主・毛利元美(もとよし)、宣次郎(せんじろう)父子でこの事は2019年11月7日のこのブログ「厚狭毛利家⑨下関での攘夷開戦」等に書いてきた。

◎先日山口県地方史学会の機関誌第126号がたまたま届いたがその中に「歴史教育分野」で鴨頭俊宏氏の研究『近世史用語「異国船」をいかに教えるか』があった。
その要点は
・既に通商関係にあった清(中国)、朝鮮、琉球、オランダの船はこの中に入るのか?
・異国船は夷国船ではないのか?
を中心に高校の歴史教育の一端が書かれてある。

◎正確な名前は分からないが菊科の仲間だろうか、白が鮮やか。
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