長州の攘夷とは

ふるさと山口県厚狭を給領地とした厚狭毛利家の代官所日記を読み込んだり、長州・萩藩の明治維新前後の歴史を調べていくと、当時の長州人や長州藩のたどった行動で最も不可解と感じられることが「攘夷」という言葉にあるように思われる。

中国の中華思想は外縁の国々を「東夷(とうい)、西戎(せいじゅう)、南蛮、北狄(ほくてき)」と呼んで見下した。したがって中華からみれば日本は東夷である。
日本もこれにならい外国を南蛮と呼んだり、夷狄と呼んだ。

「攘夷」とは夷狄を討ち攘(はら)うという意味でいわば鎖国の延長線上にあり武力行使を伴う。

幕末、長州藩と長州人は地理的な面や、吉田松陰に列なる思想などの影響から最も尖鋭的な「攘夷」行動に走り例えば、
文久2年(1863)高杉晋作久坂玄瑞井上馨伊藤博文品川弥二郎、山尾庸三など10余人で品川のイギリス公使館を焼き討ちした。
・朝廷と幕府が決めた攘夷実行期日文久3年(1863)5月10日、諸藩中唯一長州藩が下関で外国船を砲撃する。
などを引き起こしている。

藩が下関で外国船を砲撃した同月、文久三年5月12日藩上層部も認めて、いわゆる「長州ファイブ」の五人が英国への密航に出発した。この中には英国公使館焼き討ちに参加した井上馨伊藤博文、山尾庸三の三人が含まれており、彼らは明治維新後の西洋化、近代化の先導役になる。

開国を進めて通商条約を締結した幕府を倒した攘夷勢力が、開明的な新政府を樹立して西洋化を進める、いわば逆転現象を起こしていることになる。

このブログでも触れたことがあるが伊藤博文は初代兵庫県知事として維新直後、神戸の開港、開化を推進した。
井上馨は西洋化の象徴である明治鹿鳴館の主唱者でもあった。

長州藩の人々が当時本気で攘夷が成り立つと思っていたのか、あくまで旧体制を倒すための方法論と考えていたのか難しいところだが、維新後元老となって重きを成した井上馨に以下のエピソードがある。

維新後、客の一人が井上に質問する。
「あなたのような開明家がなぜ旧幕時代に攘夷家だったのですか?」
井上は苛立った調子で答えたという。
「あのときはああでなきゃならんかったんじゃ!」

🔘「君子豹変す」という言葉があるが幕末維新の長州人への褒め言葉として理解している。

🔘昨日ベランダに居ると初めて大型のLNGタンカーが大阪湾を西へ航行するのに出会した。
球形独立タンクを5基備える大型船で昨今のエネルギー事情のなかその根幹を担う船であり、見ていると他船に比べても航行スピードが早い。
LNGはマイナス162℃で液化して運搬し石油よりも比重が軽く輸送効率もよく二酸化炭素排出量が少ない。

【ガスタンカー 巨体奮(ふる)うて 秋の海】


明石海峡を越えて播磨灘から瀬戸内海へ去っていった。