「伊藤博文 ・知の政治家」

伊藤博文公は私の郷里山口県出身の大政治家である。
これまで私が郷里の大先輩として伊藤博文に持っていたイメージや知識は概ね次のようなものであった。

・元々百姓出身であったが父親の関係で武士の末席である中間(ちゅうげん)身分からスタートする。
吉田松陰に師事し、またこの縁から高杉晋作桂小五郎(木戸孝允)などに兄事して尊皇攘夷運動に奔走する。
・攘夷運動の最中、長州ファイブの一人として英国へ留学する。
長州藩と4ヶ国連合艦隊との下関攘夷戦争のニュースを聞いて急きょ英国から帰国、4ヶ国との折衝で高杉晋作などを通訳として助ける。
高杉晋作の藩内下関クーデターに力士隊を率いて参画。
・維新後新政府の岩倉使節団副使として欧米に長期滞在し国家制度などを学ぶ。
・初代総理大臣、明治憲法の生みの親。
立憲政友会を創設し政党政治への道をひらく。
・初代韓国統監、韓国併合(植民地化)を進める。
満州ハルピン駅で韓国人・安重根により狙撃され死亡。

といったことで、維新前のハツラツしたイメージと韓国統監時代の重いイメージが重なり合うものだった。

滝井一博著「伊藤博文中公新書は著者があとがきの中で
『筆者(著者)の学問とは伊藤という巨大な峰をよじ登り続ける営みだった。その意味で、本書は新書という形式ながら、15年に及ぶ研究の集大成という意味合いをもっている』

と述べている通り、各種の史料をもれなく当たり従来のイメージにとらわれること無く中立的で新たな伊藤博文像を描き出しており、私のなかの伊藤博文も大きく変わってしまった。

その膨大な内容を短いブログで書くことには少々無理があるが、副題として「知の政治家」と記される意味も含めて、その人物と業績をまとめたあとがきの一部分を少し長いが代わりに紹介しておきたい。

『伊藤は知への憧憬が人一倍深い政治家だった。幕末の時代、彼は新しい文明の知識へのもだし難い思いをばねに海外に密航し、世界的視野を身につけて帰国した。

そのようにして身につけた知識は、身分制度のしがらみを超えて世に出ていくことを可能とした。

伊藤はこの体験をもとに、教育を受けた国民が身分の枠にとらわれずに自由に職業に就いて自己の才能を発展させることを国づくりの基本に据えた。

維新後、彼が邁進したのはそのための制度形成だった。』

◎自ら海外で学んだ事をベースに新しい時代の国家制度を設計し実行に移した政治家と云えるのではないだろうか。

◎小さな柑橘類・キンカンのシーズン