幕末の「長州砲」追い求めて

日経新聞の文化欄で突然「長州砲」の文字が飛び込んできて目が釘付けになってしまった。

大阪学院大学の総合学術研究所長・郡司健(ぐんじたけし)氏が書かれた「幕末の長州砲追い求めて」という寄稿文である。

専門は会計学らしいが先祖が長州藩で大砲の鋳造を担当した二家のひとつで、先祖の歴史を自ら確認したいとこの道に踏み込んだとのことである。

このブログでも何度か触れたことがあるが、長州藩は朝廷と幕府が攘夷実行期日とした文久3年(1863)5月10日諸藩のなかで唯一下関海峡で外国船を砲撃した。この時の指揮に当たった下関海防総奉行を拝命したのが私の郷里厚狭を給領地としていた厚狭毛利家当主と嗣子であった。

この報復のために翌元治元年(1864)8月5日英米仏蘭4ヵ国連合艦隊が下関に来襲、各地砲台を占領した。この時の講和交渉に当たった代表の一人が高杉晋作で通訳が英国から急遽帰国した伊藤俊輔(博文)であった。

各国はこの時戦利品として長州藩の大砲を押収、リストを作って各国に分配したとされる。

実は私はこの記事を見るまでは長州藩の大砲は外国からの購入品とばかり先入観で思っていた。

当時肥前佐賀藩では既に生産していた最先端の鋼鉄製ではなく、長州砲は当然青銅製であるが、山口県の民謡「男なら」で唄われた、お台場建設後には自前の大砲が据え付けられたと思うと少し誇らしくなると同時に、その製作技術が連綿と伝えられていることにも改めて感銘を受ける。

筆者は各国に分配された長州砲の行方を仕事の傍ら調査することを続けられ、戦利品リストに記されたNo刻印を手がかりに下関生まれの直木賞作家・古川薫さんの業績も踏まえた追跡記録を「幕末の大砲海を渡る」鳥影社刊  にまとめられたとのことである。

郷土長州藩に関わる歴史が色々な立場の色々な人々で研究されているのを知るのは嬉しいことである。

 

【雨あがり  落ち葉が描く  裾模様】   

 

🔘雨上がりの朝を歩くと季節柄落ち葉が沢山出てまるで自然が描いた模様のように見える。