山口県地方史学会創立70周年記念大会聴講と史跡訪問など①一門あれこれ

専門外ながら入会させて貰っている山口県地方史学会の70周年記念発表会が11月26日に山口市の県立図書館で開かれ、そのテーマが私が追跡している厚狭毛利家を含む、『萩藩「一門」研究の新展開』ということもあり、是非にと思い聴講に出掛けてきた。

またこの機会に山口県在住の同級生に案内して貰い山口市近くの史跡を訪ねたことと併せて数回に分けてブログに書くことにした。

最初の回は発表会のテーマで、一般にはあまり馴染みの無い萩藩・毛利家の「一門」について、根本みなみ著『近世大名家における「家」と「御家」萩毛利家と一門家臣』清文堂刊などを参考にしながらおさらいの意味で要点を書いておきたい。

関ヶ原合戦長門・周防二ヶ国を与えられて成立した近世の大名家である萩毛利家は、成立の時期は前後するが同族で末家と称される分家大名三家・長府藩徳山藩清末藩、を支藩として抱えていた。

これらは萩藩が幕府に願い出て成立したもので、萩藩の内にありながら徳川家臣という位置付けも持っており当然参勤交代などの義務もある。

一方で吉川広家を祖とする岩国吉川領は本来三藩と同列になるものだが、関ヶ原の広家の振舞(東軍への内通)が災いし、萩藩が幕府への願い出を行わず諸侯として遇されていない特殊な位置付けであり、江戸期を通じて萩と岩国には軋轢があった。

この四家に準じ萩毛利家家臣団の最高位に位置するのが親族的家臣の一門六家で、この家格集団は全て毛利元就との系譜関係を持っていた。

これら六家とは別に永代家老の家柄で毛利家と婚姻を重ねている二家、益田家、福原家を入れて一門八家と称することもある。

これらの一門は、

・戦時には自らの家臣団(陪臣)を中核として寄組士(よりくみ・一門の次上級家臣)が組頭となる大組士(おおくみ・中級家臣)などの藩士を統率、「備え」と呼ばれる軍団を指揮する。

・平時には加判役、当職、当役と呼ばれるいわば家老職を務める。

・家ごとに数百人規模の家臣を持ち、当主、役人などは萩に住み、給領地には治めるための組織、法、身分秩序を保持している。

八家を家格(席次)順に挙げると、(家名の前は主な給領地名を表す、石高は寛永4年(1627)当時)

・三丘宍戸家 13000石

・右田毛利家 13000石

厚狭毛利家 6000石

・吉敷毛利家 7000石

・阿川毛利家 6000石

・大野毛利家 2000石(後、元禄2年6000石)

・須佐益田家 11000石

宇部福原家 8000石

🔘今日の一句

 

水鳥の母子と父が旅語る

 

🔘介護棟屋上庭園バロータという多年草らしい