記念大会聴講の前日、中学同級生の案内で長州藩の明治維新立役者のひとり大村益次郎の生地に、本人を祀って建つ大村神社に連れて行って貰った。
少しおさらいをすると大村益次郎は周防国(すおうのくに)鋳銭司(すぜんじ)村(現山口市)の村医者の子として生まれ、家業の為弘化3年(1846)大阪の緒方洪庵の適塾に入門、塾頭まで務める。その他漢学等と併せ後に宣教師ヘボンのもとで英語数学なども習得した。
(余談ながら鋳銭司とは古代の銭貨(和同開珎など)を鋳造する役所があった場所を指す)
嘉永6年幕末四賢侯のひとり伊達宗城の宇和島藩に出仕、兵制改革、砲台築造、蒸気船建造などに従事、またその縁で幕府講武所教授にも就いた。
万延元年(1860)桂小五郎(木戸孝允)などの斡旋で故郷の萩藩毛利家に召し抱えられ、慶応2年(1866)萩藩の軍事全般を所管する「軍制御用掛」に登用され、同年の四境戦争(長州征伐)の指揮を執り、その後の戊辰戦争でも官軍の中枢に居て指揮を執った。
明治2年(1869)維新政府の兵部大輔を務め、農兵論(徴兵制)を唱えたところが士族の恨みを買い京都で刺客に襲われ死亡、享年46歳。
日本の軍制の基礎を構築した人物であるが、この場所を訪れたことで私にとって二つの収穫があった。
そのひとつは神社の宮司が書かれた来歴碑にあった名前の由来、彼は妻の実家の名を継いで村田蔵六と名乗ったが、「蔵六」とは亀の別称で普段は両手足、頭、尻尾の六つの器官を甲羅に蔵め必要時に器官を出して前進する。「世の中が自分を必要とするとき自分の全てを出す」という意味が込められているらしい。
また大村益次郎と名乗ったのは萩藩の士分としての藩命によるが、大村は生地・鋳銭司村の小字名から採り、益次郎は父の名・孝益から採った名前であることもわかった。
もうひとつは司馬遼太郎さんの直筆を刻んだ「花神」という石碑に出逢えたこと。
とあり、続いて大村益次郎を主人公にした長編小説「花神」の一節が刻まれている。
防長の山河の美しさは天下に比類がない。萩の海辺の島々は夢のようでもあるし、山々をめぐる丘のたたずまいの優しさはどの土地にもない。「防長の山河は優しいのです」蔵六はいう。
蔵六のおかしさはその優美ななかでも第一等の地は「この鋳銭司村です」とおのれの在所を誇ったあたりお琴がきいていても滑稽であった。
長州山口県に生まれたものが泣けて来るような文章であり、若い日に「花神」を読んで感激したときの記憶がまざまざとよみがえって来た。尚、お琴とは大村益次郎の妻女である。
🔘大村神社
外から撮ったので少し見えにくいが、独特の風貌から「火吹きだるま」と呼ばれた大村益次郎の画像が本殿内に掲示してあった
境内より前面に広がる長沢池、季節柄かなり干上がっている。
「花神」の碑
🔘今日の二句
先覚を祀る社前の池涸れて
花神碑に若き日想ふ小春空