長州藩の危機・内戦処理に於ける支藩の動き

長州・萩藩公称37万石には長府藩5万石、徳山藩4万石、清末藩1万石、の支藩と別家として岩国を領する吉川家6万石、の4家があった。

(支藩は本藩が幕府に願い出て承認されて成立するが、岩国吉川家は関ヶ原敗戦の遺恨から萩藩が幕府への願いをしないまま経過した特殊な事例)

支藩は萩毛利家の親族であり、萩藩を構成すると共に藩として徳川家の家臣という立場も有している。

また萩の本藩に世嗣ぎがいない場合長府藩徳山藩から人が出て萩藩を継いだ。

あまり世間に知られていない長州藩支藩の動きを幕末の危機時を例にして書いておきたい。

幕末元治元年(1864)12月15日高杉晋作の下関「決起」をきっかけに始まった長州萩藩の行方を左右する内(訌)戦は、「大田・絵堂の戦い」で正義派を自称する奇兵隊など諸隊側が俗論派と呼ばれた守旧政府軍を圧倒した。

この局面ではまだ藩論統一には程遠い状況であったがこれ以降「防長御一和」といわれる新体制に向けて支藩も奔走する。

元治2年(1865)1月16日内戦が諸隊側優位でこう着状態になりつつあったため中立派家臣団が鎮静会を結成して斡旋に乗り出すが、彼らの主張は藩政府軍の撤退と人事の刷新で諸隊側の主張に沿ったものだった。

これを受け萩藩主は長府藩清末藩に周旋、諸隊鎮撫(ちんぶ)を依頼した。

この間諸隊側は萩への威嚇(いかく)艦砲射撃や、進軍の構えを見せていたが藩政府の一部人事刷新や長府、清末の周旋もありこれらを中止した。

長府、清末両藩の周旋活動が実を結びつつあった時期2月11日、諸隊鎮静の為山口に派遣されていた中立派鎮静会員が俗論派に襲撃される事件が発生、この為萩藩主は長府、清末両藩主へ登城を命じ両藩主は700人の自藩兵を率いて登城、加えて鎮静会から諸隊へ萩への進軍要請がなされ諸隊は萩周辺に滞陣した。

この状況下本格的な人事改革が行われ完全な正義派藩政府が誕生する。

3月18日、萩城にて長府、清末、徳山、三支藩主が出席した御前会議が行われ「外(朝廷・幕府)に恭順、内に武備充実」を基本とした軍制改革、諸隊配置などが承認され「防長御一和」がほぼ成った。

長州藩内のこれまでの動きを察知した幕府は再度幕府に敵対するものとみて将軍・家茂(いえもち)進発を含む長州再征(第二次長州征伐)を企図し全国に軍令を発する。

この状況下、幕府に恭順することが基本姿勢であった岩国領主・吉川経幹(きっかわつねまさ)も、今までの経緯を捨て他の支藩主3名と共に山口に参集して萩藩政府内で協議し、遂に閏5月20日、幕府再征軍が防長二州に侵入した場合「一統死を決して防戦」という方針で一致した。

この時点で岩国も入れた「防長二州御一和」が完全となり幕府軍を迎え撃つ体制が整い、幕府側から見た第二次長州征伐、長州藩側からいう「四境の役(しきょうのえき)」が始まる。

これ以後明治維新に至るまで長州藩内が揺らぐことはなかった。

 

🔘昨日は台風14号が通過、引っ越し後初めて遭遇する本格的な台風で勝手が分からず高台に有るので風を強く受けたが何とか無事にやり過ごせて良かった。

【強風(かぜ)来たり  節(ふし)無き芒(すすき)                                                                  堪え撓(たわ)む】

施設の庭園の芒は竹のように節があるわけでもないのに、風で90度くらい繰り返し曲げられても堪え忍んでいる。