四境戦争に対応した長州藩軍制改革と厚狭③

9月29日の続き

迫り来る幕府、諸大名の大軍を前にした慶応2年(1866)長州藩の軍制改革後の編成は、

正規軍8535名、清末・徳山・長府各支藩隊2113名、奇兵隊など諸隊1500余名、農商兵1600名余

合わせておよそ1万4千人であった。

彼らに銃を行き渡らせることが必須であることは云うまでもないことで、藩は薩摩を介するなど種々の手段を講じて新式銃の購入にこころを砕く。

厚狭毛利家など「一手」の編成を義務付けられた諸士は自前調達が原則で、藩から「もはや無用の長物である火縄銃や甲冑を売却して装條銃や剣付銃を買得せよ」と命令が下っていた。

(現代の軍隊では武器装備などは国が用意するものだが、鎌倉から江戸時代を通じた武士の世は自前が原則である。その為に武士は主君から領地や禄を代々給されている。いわば禄高は戦いという緊急事態に備えた命をも含む代償である。)

厚狭毛利家では先に書いたように銃隊149名分の銃が必要だったが、

柳澤京子氏の「長州藩慶応期軍制改革と藩正規軍」によると実際に調達出来たのは

・ミニエー銃(ライフル式)40挺

・ゲベール銃(滑腔式)44挺

の計84挺のみで全く充足出来ていない。

同史料によると慶応元年(1865)8月に厚狭毛利家では藩にミニエー銃40挺、ゲベール銃110挺の購入希望を出していたが実際に受け取ったのは先の84挺であった。

これは何を意味するものか、少なくとも厚狭毛利家の「一手」は最優先で武器を配備する対象ではなかったわけで、単に金銭的なものかそれともこの時点に至るまでの厚狭毛利家当主等の俗論派寄りの行動が影響しているのかもしれない。

このような問題点は抱えながら約10倍の兵力を持つ幕府軍を四境〔大島口(周防大島方面)、芸州口(広島方面)、石州口(島根方面)、小倉口(北九州方面)〕に迎え慶応2年(1866)6月周防大島での戦いから第二次長州征討・四境戦争が始まる。

 

【散髪を  終えて何処(どこ)へと  鰯雲

 

🔘近くの道のそばにあるススキ、ススキもこれだけ集まるとなかなか見応えがある。