長州藩士・前原一誠(まえばらいっせい)

明治維新の三傑といえば異論なく、薩摩の西郷隆盛大久保利通、長州の木戸孝允の名前が出てくる。
しかし明治維新の十傑となると、三傑以外に誰を入れ誰を外すかで今でも定まらない。
長州藩前原一誠は人によってこの十傑に入れたり入れなかったり云わば当落線上だが、新政府の参議を勤めて維新の大功労者の一人であることは間違いない。

年末に実家の兄と電話をしていた際に、ふるさと厚狭も含まれる山口県山陽小野田市の歴史民俗資料館で、前原一誠に触れた講演会が有るとの話を聞いた。
前原一誠は萩の生まれでなぜ山陽小野田市で取りあげられるのか疑問に思い調べると、やはり接点が有ることが分かってきた。

長州藩士・佐世(させ)家の長男として萩に生まれた八十郞(やそろう・後の前原一誠)は父が勤務した船木宰判(さいばん)役所の関係で若き日に宰判内の旦(だん・現在山陽小野田市)地区に住んでいた。

その後、萩に戻り松下村塾に入門、吉田松陰からもその人物について高い評価を受け尊皇攘夷運動にのり出す事になる。

元治元年(1864)12月高杉晋作が藩論を転回させるべく下関・長府で少数挙兵した際はいち早く参加、その後の長州藩内の俗論派(保守派)との戦いを正義派(尊皇攘夷倒幕派)として戦い抜き戦後は藩政府の要職に就く。

慶応2年(1866)の四境戦争(第二次長州征伐)では高杉晋作などと共に九州小倉口で戦っている。
厚狭毛利家家臣団・強義隊も小倉口で戦っておりこの点からも接点があった。

戊辰戦争では越後(新潟県)方面の参謀として、有名な河井継之助(かわいつぎのすけ)が指揮する越後長岡藩と戦った。

明治新政府では大村益次郎が暗殺された後、兵部大輔(ひょうぶたゆう・国防次官)の要職にあったが、徴兵制に反対の立場から長州閥の総帥・木戸孝允山県有朋のラインと衝突、辞職して不平士族に担がれ「萩の乱」を起こすも破れて刑死した。

◎これだけではなかなかその人物像は見えにくいが、徴兵制に反対ということから察すると、維新回天活動に参画しながらも士族としての保守的な信条が有ったのではないかと思われる。

司馬遼太郎さんは作品の中で脇役として前原一誠を登場させており次の回でその人物像を知る手がかりとして紹介したい。

◎これはゼラニウムの仲間のような気がするのだが?
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