厚狭毛利家代官所日記No52慶応2年(1866)⑥軍艦購入費の献納と玉木文之進

四境戦争が孝明天皇の勅命で休戦、実質勝利に終わった後、厚狭毛利家のある長州藩吉田宰判では此の後の防備のために軍艦を購入する費用を村々が献納したことが代官所日記に記されている。

9月23日に記録されている願書覚え(この部分は山陽町史の訳を引用)

『今般四境へ向かう敵とついに開戦となったが、諸口とも勝利を得たことは、ひとえに御正義貫徹のためで下民に至るまで一統よろこぶところである。しかしこの後の海防の要務である軍艦購入については、吉田宰判中銘々よりも、数百年来の御高恩の万分の一をも報いたいため、多少の献金をしたので費用の一端に加えて頂きたい』

献金額諸村合計(人別村別の詳細は別にあり)

・金、8904両2歩3朱、札銀38貫余り

この願書は吉田宰判の村役人トップである大庄屋から提出され当時の郡奉行(こおりぶぎょう)・玉木文之進から吉田宰判代官宛に以下のように沙汰されている。

『志、神妙につき召し上げられる、献納者への賞美は別途詮議する』

🔘厳しい四境戦争に勝利したことで藩内の上下が高揚していることが良くわかる。

🔘長州藩に於ける郡奉行は藩内の地方(じかた・村々)の民政、年貢などを統括し、藩内18の行政区である各宰判(さいばん)の代官所を指揮する役職である。

🔘この日記に出てくる当時の奉行・玉木文之進吉田松陰の叔父に当たり松下村塾を創始、松陰を厳しく教育したことで知られる。

また親戚に当たる乃木希典も指導した。

玉木文之進は明治になって松下村塾を再び開いて子弟を教育するが、前原一誠の「萩の乱」に子弟の多くが参画したためその責任を取って自決した。

🔘日記に突然玉木文之進の名前を見付けることができたのだが、これこそ歴史を追いかける嬉しい醍醐味かも知れない。

🔘施設の屋上に蝋梅が咲いていることを入居者の方に教えられたが、すれ違いで残念ながら見た時期が雪や雨に打たれた後になってしまった。

 

【蝋梅の香りや何処(いずこ)雨あがる】