角川地名大辞典・山口県③防長風土注進案(ぼうちょうふうどちゅうしんあん)

12月20日の続き

「地名大辞典・山口県」の月報に田中彰氏(当時北大教授)の「防長風土注進案と地名」と題した寄稿文が掲載されている。

田中氏はこの注進案の地名を例に挙げ、行政の側から勝手に地名を変えたり、作ったりすることだけは断固としてやめるべきで、地名はその土地土地の歴史であり、顔である、地名を見れば由来がわかり、由来を知ればその地名を歴史的に納得できると力説されている。

ここで挙げられた「防長風土注進案」は長州藩天保改革の一環として企図されたもので、その改革は商品経済への転換期の幕藩体制の危機を領主の側から克服しようとしたもので後の維新活動の基礎になったものである。

注進案は村々の実態を詳細に把握すべく意図して天保12年(1841)から嘉永5年(1852)まで足かけ12年の歳月をかけて全395冊が出揃った。

名前の由来は18の各宰判(さいばん・長州藩の行政区画)ごとに村名の由来、広さ、形勢、税の状況、地理交通、農民の階層、職業、戸数、産業物産、寺社、名所旧跡、風俗、等々極めて多岐に渡り詳細に書き出し報告させたことに依るものでいわば江戸時代長州藩風土記とも云え、藩が末端の実情を詳細xに把握して改革に役立てようとした意図がよく分かる。

〈注進とは古い言葉で書面で報告することを云う〉

当時私のふるさと厚狭は吉田宰判の内であり、山口県厚狭郡山陽町教育委員会が昭和36年(1961)に発行された「山陽町史 資料篇上巻」に全て収録されていて私が江戸時代のふるさとを知るうえで貴重な史料になっている。

ちなみに厚狭村はこの中で冒頭「厚狭郡吉田御宰判鴨庄之内厚狭村」として記載されて詳細な記述があり、末尾に「右、當(当)村に御座候、紙数上紙共百七枚(107ページ)」として終わっている。

 

【図書室を 冬日温めて 為替読む】

 

🔘健康診断を受けた病院玄関前の花壇、画像検索ではアリッサムとパンジーと思われる。