厚狭毛利家代官所日記㉟文久3年(1863)④男子健常者の調査

文久3年は幕末長州藩の転回点とも云える年で下関攘夷戦争を経て翌年の禁門の変、第一次長州征伐、長州藩内訌戦争へと続くことになる。

この為危機感が徐々に高まり庶民も含めた総動員体制に向け動員可能人数把握のための調査が始まっている。

代官所日記の関連記録
2月13日
下厚狭(郡、下津、梶浦各村)諸存内(各庄屋毎に)の男子15才から50才までの健常者、名前人数等来る15日までに書き出すように沙汰した。

2月22日
下厚狭地方(じかた・村々)者20才より50才までの健常男子は次の通り
・郡村 132人
・梶浦 49人
・下津村 75人
計256人 を萩まで報告した。

3月7日
上厚狭地方者20才より50才までの健常男子は次の通り
・逢坂村 162人
・船木村 368人
計530人

🔘厚狭毛利家領は上厚狭(船木宰判管轄)、下厚狭(吉田宰判管轄)の他に奧阿武宰判の高佐村(374石・現在萩市)があるが、この地を除き、武士身分以外の厚狭毛利家の動員可能人数は786人であることが分かる。

🔘当初の御触れでは15才以上であったが集計では20才以上になっておりこの理由は不明である。

🔘何れにせよ名簿に登録された百姓町人の人達は上意下達の世の中で下関攘夷戦争を肌で感じ、いつ動員されるか戦々恐々の思いであったに違いない。


🔘毎朝歩く健康公園ではソメイヨシノの桜並木が青々と連なり歩径路に日陰を作ってくれており、文字通りお陰さまで今日も頑張れる。
来年春はきっと素晴らしい花見が出来るのだろう。

【朝凪(あさなぎ)に 緑もいいね 桜木は】