厚狭毛利家代官所日記㉓文久2年⑤農民の大チョンボ

ふるさと厚狭を給領地にした厚狭毛利家の民政記録・代官所日記に、公務にかり出された百姓の大失敗が記録されている。

萩藩毛利家では領内を宰判(さいばん)と呼ばれる18の行政区に分けて勘場(かんば)と名付けられた役所を置き代官を始めとする役人が詰めていた。
厚狭毛利領は吉田宰判と船木宰判の両方に重なる地域に当たり、山陽道の半宿(はんじゅく・庶民が泊まる宿場)である厚狭市(あさいち・現在の厚狭本町辺り)には目代所(もくだいしょ・役人などが利用する人夫や馬などを用意した場所)が置かれ周辺の村から百姓が夫役にかり出されていた。

文久2年(1862)7月15日の記録を現代文に直す。

当月5日に出役した厚狭毛利領下津村の百姓小一郎が船木代官から吉田代官宛の預かった書状を届ける途中で紛失、厚狭毛利家役人や庄屋の助けで書き上げた口上書は以下の通り。(修飾やへりくだった文章が多くその部分は割愛)

申し上げる事
【今月5日、厚狭より吉田御勘場への御用状を持参途上取り落とした件を、書面を以て申し上げよとの事を承りました。
私は同日厚狭市宿へ出番で、午後2時過ぎ目代より大切な御用状なので念を入れ勘場へ持参返答を持ち帰るよう指示を受けました。
それを内懐に入れ帯の辺りに挟み、石丸橋手前およそ7町(1町は約110m)ほど行った処で風が強くなり、大切な御用状を取り落としては相済まないと思い財布に入れようと思った処、どこで取り落としたのか見当たりません。

直ぐに後戻りして道筋や行き逢う人に尋ねても見当たらず直ぐに目代所へ申し出て一同に捜して貰うも分からず、当時厚狭川橋架け変え工事中で歩いて厚狭川を渡ったので川下も調べましたが見当たりません。

~~~ 近辺をくまなく捜して見つからなかった事より
前の通り厚狭川を歩いて渡った折りに水中へ取り落としたのではないかと考えます。
ひとえに私の不行き届きで大切な御用物を取り落とし恐れ入ります。
行き掛かりは以上の通りで格別のお計らいを以てお聞きどけ頂きますようお願い申し上げます。】

その後の記録を調べると小一郎は吉田宰判の勘場からの指示で「張紙 閉戸」処分、「懲悪録(ちょうあくろく)」に記録された。
「張紙 閉戸」とは住居の入り口に罪状を記した紙を貼りつけ、表を竹を十文字に組んだ状態で出入り出来ないようにするもので、その後の記録では7日間で許されている。

◎元々本人の不注意から生じたものだが、当時の小一郎は生きた心地がしなかったのではないかと同情をしてしまう。
行政側としても今後の見せしめという思惑も有ったと思われる。

◎空き地の草むら、ナズナのような気がするが。
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