厚狭毛利家代官所日記No55慶応3年(1867)③米の不正積み出しと厚狭毛利家代官の解任

四境戦争への準備として長州藩では米の他領への売却積み出しの禁令と、禁令破りを届け出たものに報償金を出す「お触れ」が出されていたことを2022年12月27日のブログに書いた。

〔以下慶応3年11月3日から翌4年3月5日までの関連記録の要約〕

・このような禁令が出されているなか厚狭下津の港で米の不正積み出しが行われ、それを梶浦の漁民が見咎め藩の下津番所(港の見張り)役人が船に張り番を置くように指示した。

・下津は厚狭毛利領なので厚狭毛利家代官所の役人が出張し、強制的にその米を水揚げし倉庫に置いて封をした。(米は91俵あり領内の村役人も関わっていたようである)

・藩の役人が処置した内容を厚狭毛利家役人が覆したことになり、この報告が下津番所から藩の吉田宰判代官所を経て中枢である山口の政事堂へ上がり、担当の遠近方(おちこちかた)から厚狭毛利家に指示があり担当役人と代官がお役御免交代となった。

・厚狭毛利家の担当役人の言い分が一部書かれてあるが、そこでは代官の指示に従って船から米を水揚げをしたと書かれている。

この当時慶応三年は米の禁令は生きているものの既に四境戦争の勝利は確定しており、そのような状況のなか余剰米を現金化しようとしたのではないかと思われる。

厚狭毛利家ではこの件を内々で済ませようと宰判の村役人や藩の担当の筋へ働きかけを行って断られている様子が書かれており、また積み出しに参画した農民への処分も含め詳細が書かれていないので推測になるが、どうも厚狭毛利家の代官などはこの不正積み出しを知っていてこのことを隠そうとしたのではないかと思われる節がある。

何れにしろ厚狭毛利家の失態ではあるものの、この一連の動きを見ると対外戦争を経て当時長州藩の統制は良く取れていたことが充分に見て取れる。

 

【蜂の子は孫と鱒(ます)釣る餌にして】

 

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