厚狭毛利家代官所日記のまえがき・開作(かいさく)

厚狭毛利家の民政を記録した代官所日記の文久2年(1862)分を読んでいくと厚狭毛利家家臣の一人が何らかの罪に問われ九州に逃亡、遂に捕えられる経過が頻繁に出てくるようになった。

罪状などは記載がなく分からなかったが、この逃亡を助ける者がいたり、家臣のなかで捕縛に向かうのを嫌がる様子もあり不思議な事件と思ってきたが、「山陽町史」等を読み直す中でここに来てようやくその原因が厚狭毛利家が行った「開作」にあることが分かって来て、先ずその開作の事を書いておくことにした。

長州、萩藩では新田開発の事を開作と称した。
関ヶ原の敗戦で120万石から防長2州36万石に減封された為、財政窮迫した藩は以後、藩士、寺社、百姓を問わず一定の規制のもと開作奨励策を採った。

家来開作と呼ばれた藩士による開作は、造成後に検地しその石高が本知行に加算されるため、厚狭周辺の給領主は競ってこれに乗り出し加増された記録が残る。
これらが明治維新につながる原動力のひとつでもある。

厚狭毛利家は初代・元康が関ヶ原後の領地替えでも10500石という小大名並みの領地に留まったが、2代目元宣(もとのぶ)の代に行われた萩城での馬揃え(うまぞろえ・軍備点検)で不首尾があり6000石に減知された。
(この減知の経緯については2019年8月4日のこのブログに書いた)

この為厚狭毛利家は他の一門家や藩士に比べても財政事情は深刻で、他領地近郊や厚狭周辺を問わず代々開作に邁進する。
しかし厚狭毛利家には資金がなく、開作後の田地を下げ渡す等の約束で長州藩内の富豪から借銀する形で行われ、厚狭毛利家家臣はこの事に奔走することになる。

検地による厚狭毛利家の最高石高は8375石と記録があり旧知行6000石との差は開作によるものと考えられる。開作のなかで最も大規模なものが第14代・元美(もとよし)の時代に厚狭川河口を干拓して行われた梶浦開作である。

梶浦開作は先に始まった古開作、次の沖開作に分けられるが古開作の鍬入れが天保6年(1835)、沖開作の実質的な竣工は慶応元年(1865)とされる事から実に30年に渡る歳月を要したことになる。

◎厚狭川河口の地図、古開作、沖開作と記された場所が全体として梶浦開作になる。

◎冬に活躍する水仙