天智(てんち)と持統(じとう)

遠山美都男 著「天智と持統」講談社現代新書を読み終えた。
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最近の古代史ではこの本の主人公とも云うべき、女性であった持統天皇の功績を大きく評価する動きが一層出ておりTVの歴史番組でも時折名前が出てくる。

この本の題名のもう一方、天智天皇は若き日の名前は周知の通り中大兄皇子(なかのおおえのおうじ)と呼ばれ、率先して剣をふるって蘇我氏を倒し、藤原氏の祖・中臣鎌足(なかとみのかまたり)と共に「大化の改新」を成して律令(りつりょう)制を基本にした古代国家の基礎を築いた人物と知られる。

一方持統天皇天智天皇の娘で、天智天皇の弟である後の天武天皇に嫁いだ。
天智天皇は都を近江国(おうみのくに)大津に移し後継として持統の異母弟に当たる大友皇子(おおとものみこ)を指名した。

この後天武天皇(当時は大海人皇子・おおあまのみこ)と近江の大友皇子の間で古代史上最大の内乱である「壬申の乱(じんしんのらん)」が勃発、天武天皇側の勝利に終わりこれを受けて即位する。

持統は夫である天武天皇に付き従い、云わば父と異母弟に対して昂然と反旗を翻し自分の道を突き進み夫の天武天皇が即位、更に5年後の死を受けて自らが天皇となる。
歴史上大王(おおきみ)と呼ばれていた名が天皇という呼称に改まったのはこの天武、持統の時代とされる。

この本は「古事記」や「鎌足伝」といった史料の記述を追いながら、持統天皇が神からの委任として天皇制を確立するため父である天智天皇を絶対視し、その後の皇統を決定付け大宝律令(たいほうのりつりょう)の制定等と併せ7世紀以後の古代国家の骨格を定めたと述べている。

壬申の乱では父の意思に叛いたが、父を絶対視していく過程でこれを正当化しておく必要があり、古事記には持統天皇の意志が色々な形で折り込まれ、例えば天武天皇側の挙兵はあくまでも大友皇子周辺の奸臣を討つためであったなどの記述につながったとしている。

◎今までの私の認識は、7世紀天武天皇とその妻であった持統天皇がコンビで国家の基礎を築いたという認識であったが、新たな視点を与えてもらい今後も注意してこの辺りを見ていこうと思っている。

現在女性天皇について色々な意見があるが、古代でも女性天皇として有能な人物が確かに存在した事実は、この事について参考になる事かもしれない。


◎自宅付近から南東方向に見る冬の葛城(かつらぎ)山、
古代の大豪族・葛城氏の地盤はこの山の東側にある。
持統天皇蘇我氏の血統に連なるが、蘇我氏は葛城氏の地盤を受け継いだという説がある。
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