緒方洪庵とふるさと生まれ・青木周蔵との繋がり

一昨日のこのブログで触れた大阪大学適塾記念センター発行の機関誌「適塾・No54」を読み進めると、江戸時代後期に大阪北浜で蘭学の「適塾」を開いた緒方洪庵とふるさととの繋がりがあったことが書かれてあった

適塾記念センターの尾崎真理氏が、現在「緒方洪庵全集」を編纂する過程での洪庵の書状や文書などを紹介されている「新収の緒方洪庵の著作および書状について」に載せられているもので、緒方洪庵から長州藩の青木周弼(あおきしゅうすけ)に宛てた書状である。

緒方洪庵適塾で教えた後、幕府の西洋医学所頭取として江戸へ赴任するが、この時候補者として洪庵と共に名が挙げられていたのが青木周弼で二人は学友であった。

周弼はこれを辞退し洪庵を推薦した経緯も有ったようで、この書状は洪庵が西洋医学所頭取と幕府の奥医師就任の詳細を周弼に知らせたものとのことである。

私のふるさと出身で唯一大臣となり明治の不平等条約改正に尽力した外務大臣青木周蔵のことは2019年5月1日のこのブログで一度取り上げたことがあるが、彼の著作
青木周蔵自伝」には
『余は長門国厚狭郡小埴生村(こはぶむら)に在住した三浦玄中の長男なり』
『当時、萩に於ける蘭方医としては、学問治術共に青木周弼及び弟研蔵両氏に匹敵する者なく、父子(兄弟)ひとしく要路に立て藩立医学校の教頭及教授たりし~~』
と書かれている。
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この後周囲から の実父への説得を踏まえて、周蔵は青木家に養子として迎えられ戸籍上、養父・研蔵、養祖父・周弼という関係を得ることになる。
(周弼は弟研蔵を戸籍上の養子にしていたようである)

したがって緒方洪庵から友人の青木周弼宛の書状は青木周蔵の祖父に出された手紙ということになる。
私の尊敬する人物の一人緒方洪庵がより身近に感じることが出来て嬉しい収穫となった。

◎今朝は雨上がり、歩きながら見返ると冬雲で金剛、葛城の山なみは見えないが、北にある二上山(にじょうざん・ふたかみやま)のみが見える。
雄岳、雌岳の二こぶが特徴で雄岳の山頂近くに天武天皇の皇子で天皇死後謀叛の疑いを掛けられ自害した大津皇子の墓がある。
この謀叛は無実であったとする説が多い。
そういえばもう2年以上登っていない。
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・死後、二上山に移葬される際に姉の大来皇女が詠んだとされる歌。(万葉集)

『うつそみの人なる我(われ)や明日よりは 二上山(ふたかみやま)を弟(いろせ)と我(あ)が見む』