厚狭毛利家代官所日記㊱文久3年(1863)⑤強制献金

文久3年5月~6月に掛けて長州藩は下関で外国船を砲撃、厚狭毛利家当主や嗣子が総奉行として陣頭に立ち、ふるさと厚狭からは家臣や人夫が動員され、武器や食料、物品などの補給も行われたことが、代官所日記に記録されている。

当時の武家は年貢米の値段に比べて諸物価が高騰して例外なく窮迫しており、いったいこの費用はどこから出るのか不審に思っていたが案の定、献金という名目で厚狭の百姓町人にその負担が廻っていることが代官所日記に記録されている。

8月6日
船木市(ふなきいち・領内の山陽道の本宿)で大砲一挺の献納を差し許すという名目で市の有力者8名が一人10両から4両計57両の献金があった。

8月10日~17日
領内の各庄屋の管轄内(存内)の献金者に対し「御酒頂戴」という儀式会合が催され、出席者に酒、吸い物肴3種、破籠(わりご・檜の薄板製容器)に入れた煮しめ(お土産用?)などごちそうが出された。
この時献金の高によって席次が決められた。
病気等で出席出来ないものへは別に酒5合宛て下された。
記録されている出席(献金)者は以下の通り。
・逢坂村 107人
・船木村 150余人
・古開作、梶浦 人数不明
・郡村、下津村 160余人

8月25日
地方(じかた・村々)の献金について容易ならざる心配をかけたとのことで庄屋、畔頭(くろがしら・庄屋の下役)の村役人計21人に対し酒、吸い物肴5種、破籠に入れた煮しめが出された。
(一般の場合肴3種が村役人は5種になっているのが面白い)

9月6日
献金の集計結果が報告される。
諸費用を差し引いた残金として、
銀 37貫922匁余り、金に換算446両2朱余り
他に米50俵余り、人夫加勢16人分32人役
(お金が出せないものは米もしくは夫役として協力している)

(江戸時代後期の1両を現在の円に換算した場合、米の値段では約6万円、大工の手間賃では約35万円、そばの代金では約20万円という日本銀行のデータがあり、間をとって仮に一両18万円とすると446両は約8000万円に相当する)

🔘8月25日の記録に「村役人に容易ならざる心配をかけた」とあるように献金とは名ばかりで、村役人を介したかなり強制色の強い金集めであることが想像される。
表の方では「攘夷」などと威勢が良いが、いつの時代でもその負担が一般庶民を押しつぶすことになる。

🔘ベランダから眺めると午後の炎天下、海の彼方から立ち上がるようにして入道雲が発達している。

【海沸きて 大阪湾に 夏の雲】