厚狭毛利家代官所日記⑲文久2年①洞玄寺の盗人①

厚狭毛利家の文久2年(1862)の民政記録、正月4日の分を現代文に直す。

厚狭下津(しもづ)地区にある曹洞宗・洞玄寺(とうげんじ)は厚狭毛利家の歴代当主の墓もある菩提寺であり、このブログでも何度か取りあげた事がある。
昨年帰省時に撮った現在の洞玄寺

正月4日の日記から

洞玄寺より昨年12月25日の夜、御位牌前の香炉(こうろ)、花瓶、燭台、観音尊像(11面黄金仏との申伝え)、花模様の幔幕(まんまく)、の紛失について申し出があった、過日26日より方々へ尋ねたが未だに分かっていない。

このようなところに、大みそかの夜、寺禅堂内のわらゴミがあるところで、その中からこそこそ物音がするので、中間(ちゅうげん・召し使い)が灯火を持って見ても格別の様子もなかったが、何とも不審に思い天秤棒を持ってそこここを突いたところゴミの中から「やれ助けて私は米の他は盗んでいない」というその声は、昨年12月に洞玄寺に居たことのある宇三郎という者。

「その方はなぜここに居る」と穿鑿(せんさく)したところ、「追々寺の米を三俵と七枡(ます)盗み、厚狭市で売りさばき下関へ行ったところ、足を痛めてしまい、どこか別のところへも行きかけたものの痛みが強くなり行かれず、洞玄寺に帰れば痛みがなくなるのではと26日の夜帰って来ました。
然しその夜から痛みが強くなり立つこともできず食事もしていない。」
と申し出たとのことである。

その内夜が明けたので、隣部落の年寄り(村役人)に預りを申し付けたところ(当人の)足が立たないので筵(むしろ)に乗せて連れ帰ったと洞玄寺より申し出があった。

然し正月松の内はそのままにして今日から壺井権衛門(庄屋)
宅に於いて、西岡作兵衛(厚狭毛利家奉行所勤番)と配下3名を出張させ究明を指示した。

◎時代劇のような話でここまでで字数を費やしたが、この後この事件については4月13日付けの最終まで少しずつ全8回の記録があり次回にまとめて経過を書く。

◎今日の野菜の収穫分、夏の間収穫したナスとピーマンだが今でも不思議なほど息長く収穫出来ている。



まだ秋ナスの花が咲き続けている。