明治2年の騒動と厚狭②下津・洞玄寺の廃寺事件

1月12日のこの日記に山口藩諸隊の脱隊騒動を書いたがこの騒動は厚狭にもう一つのエピソードを残した。

厚狭川の下流、下津(しもず)にある曹洞宗洞玄寺は厚狭毛利家2代目毛利元宣が初めて所領厚狭に入部の際、大阪で死去した父元康(法名洞玄寺殿石心玄也居士)の菩提を弔う為、元の長光寺から改めて建立したもので厚狭毛利家墓所でもある。 また開山和尚の繋がりから山口県長門湯本にある、大内義隆自刃の地として有名な大寧寺の末寺である。

脱隊騒動の折、洞玄寺住職であった実音和尚は脱隊兵士側に同情、指導的立場になって加わった。この為厚狭毛利家より蟄居処分が申し渡されたがそのまま出奔、連日捜索するも行方知れずで、藩政府へ届け出たところ洞玄寺廃寺の処分が下された。

この頃、明治初期は神仏分離廃仏毀釈機運の真っ只中で仏教寺院への風当たりが極めて強い時代で、この風潮が処分の厳しさの背景にあると思われる。

末寺のなかでも格式が高い寺の廃寺を憂いた本寺大寧寺では藩内大津の正福寺を元洞玄寺へ引寺することを藩に嘆願、明治3年許されて以後正福寺と呼称することになる。この後大寧寺からは幾度も洞玄寺の再興を願い出るも許されず、再び元の洞玄寺を復称するのは昭和44年迄待つ事になる。

私もこの件を調べる過程で最近発見したのだが、大寧寺側から見たこの事件の記述が大寧寺の公式ホームページに洞玄寺廃寺事件としてに掲載されている。
色々な史料から私なりに推測すると実音和尚は捕まると死罪は免れない立場であり、仏教宗派のネットワーク内で匿われて逃げ延びたと考えられる。