武将・今川貞世とふるさと厚狭②

7月6日の続き

室町幕府3代将軍・足利義満から九州探題の命を受けた今川貞世は応安4年(1371)2月京を発ち、山陽道をゆっくり下り各地の有力者の協力を取り付ける。
周防国(すおうのくに・山口県東部)では防府で大内弘世(おおうちひろよ)と九州の南朝方の攻略について相談した。

長門国(ながとのくに・山口県西部)に入ったのは10月8日半年かかって到着した厚狭に関連した記述について「山陽町史」をもとに道中記・「道ゆきぶり」の内容を書き出す。

【日中ばかりこの山をこえて、あさの郡(こおり)というさとにつきぬ。むかし板がきの城と申しける山ぎはに、寺の侍(はべ)るに今夜はとどまりたり。この寺の本尊は信濃国善光寺如来をたしかにうつし奉りけると申す。

『雨にきる我が身の代にかへななむころもおるてふあさのさと人』

あけぬれど、なお雨風やまず。よもすがら霰(あられ)うちまじれて降りあかしつるを、今朝み侍(はべ)れば、昨日わけこし山の梢(こずえ)どもに、雪のふりかかりて、里近きふもとの梢は、なおのこりの紅葉どもの色こくて立ちまじりたり。まことにめずらかなり。ーーーーー】

🔘今川貞世は(東の)山を越えて厚狭の郡(郡役所があったと云われる)地区に着き、昔板垣の城といった山際の寺に泊まった。
板垣とは現在の下津(しもづ)の古い呼び名で板垣城は長光寺山にあったと云われる。
従って寺は当時の長光寺であり現在の洞玄寺(とうげんじ)に泊まったことになる。

(厚狭毛利家が郡に本拠を置いた際、二代・毛利元宣(もとのぶ)は先代元康(もとやす)の菩提を弔うため当時荒廃していた長光寺跡を洞玄寺として再興し、厚狭毛利家の菩提寺とした)

出立の朝、山々の梢には雪が降りかかり、里の近く麓の梢には散り残った紅葉が色濃く混じり美しい景色であると記している。

貞世が詠んだ歌「雨にきるーーー」は記録に残る厚狭の文学史上初めての短歌として2019年10月9日のこのブログに書いたことがある。

今川貞世は南九州島津氏との軋轢(あつれき)などで九州平定の使命は中途に終わり九州探題を解任されるが、それを補うように「道ゆきぶり」以外にも「難太平記」などの著作で文人の名を遺す。


🔘涼むために出たベランダで撮った昨日の南方向の夜景、
奥方向に一直線に見える灯りの筋は海を隔てた大阪になる。