厚狭毛利家代官所日記㉝文久3年(1863)④

6月23日の続き

朝廷と幕府が決定した攘夷(じょうい・異国船打ち払い)実行期日5月10日、赤間関海防総奉行を拝命していた厚狭毛利家当主・毛利元美(もとよし)は当日異国船への砲撃を躊躇(ちゅうちょ)した事を咎められ謹慎処分を受け、総奉行は養嗣子(異母弟)・宣次郎(せんじろう)に交代した。

宣次郎は16日に下関に着任、その後6月13日に萩藩家老・国司信濃(くにししなの)に交代するまで約1ヶ月の間海戦4度を指揮した。

その時期の代官所日記の中から一部を抜粋する。
5月19日
・若旦那様(宣次郎)赤間関総奉行を仰せ蒙られたことに付き御出関(下関出陣)されたことを(領内に)触れ出した。

以下下関からの飛脚の知らせを記録
5月23日
・明け七つ時(午前4時頃)異船一艘が来たので砲撃を命じた。先手は専念寺へ出陣、若旦那様は士卒を引き連れ光明寺へ出陣した。
前田、杉谷、壇ノ浦、亀山等の砲台、(藩船の)庚申丸(こうしんまる)、癸亥丸(きがいまる)から数々発砲し5~6発は当たったとみえる。異船は西へ逃げ去り追い討ちをかけ異船の敗北を確認の上人数を引き連れ凱陣された。
ーーーこの時の相手はフランス軍艦・キャンシャン号

5月27日(実際の戦闘は26日)
・辰の刻(午前6時頃)西からオランダ軍艦一艘が東へ進んで来たので、庚申、癸亥の両艦及び砲台から発砲、異船からも数発陸地へ砲撃着弾、南部辺りの人家を破損、庚申丸も被弾し怪我人死人が出た。
若旦那様(宣次郎)は稲荷社に出陣し7つ半時(午後5時頃)帰陣された。
ーーーこの時の相手はオランダ軍艦・メデユーサ号

6月2日(実際の戦闘は6月1日)
長州藩世子公・毛利定広が壬戍丸(藩船・じんじゅつまる)に乗るためはしけに乗り移ろうとしたところ瀬戸口から蒸気船一艘が西下しようとしており、合図の発砲、二つ切りの鐘で知らせた。
杉谷や他の砲台、庚申丸癸亥丸からも打ち懸けた。
異船からもしきりに打ち出し藩の軍艦二艘共に打ち壊され、庚申丸は沈み壬戍丸は釜(ボイラー)を打ち破られ負傷8人死者3人が出た。その他町家へも打ち込まれ異船は東へ退去した。残念千万のことである。
世子公は日和山に移りその後 無事に陣屋に戻られた。
若旦那様(宣次郎)は本陣の白石正一郎宅で指揮を取り、七つ時(午後4時頃)に無事に帰館した。
ーーーこの時の相手はアメリカ軍艦・ワイオミング号

6月5日(6月7日の記録も含む)
・異船二艘田ノ浦沖に繋船して発砲、前田台場を打ち破り上陸して陸戦、備えを立て剣付き鉄砲を持って押し上がり前田茶屋や農家15~16軒を焼き払った。
陸戦のなかで即死や負傷者も出て敗北、残念千万。
異人は本船へ引き退いたが沖合いで滞居しており宣次郎も宿陣した。
厚狭からも壮士十余人を伏兵として壇ノ浦に送り出したが八つ時に退船したとの連絡があり解散した。
宣次郎は七つ時に帰陣した。
ーーーこの時の相手はフランス軍艦タンクレード号、セミラミス号

🔘この攘夷実行は藩の軍事行動であり藩からの補給が基本であるが、記録をみると都度、厚狭から、人員、馬の装具や飼料、草鞋、炭・割木などの燃料、食料などを厚狭川河口の梶浦から下関に届けておりその負担は並大抵でなかったと推測される。
また下関からの砲撃音の記事もありこの時期の厚狭は戦時一色であった。

🔘宣次郎は国司信濃との交代に当たりその功を賞され藩主より鎧直垂(よろいひたたれ・鎧の下に着る武家装束)を拝領した。

🔘この戦いで既に長州藩は一定の損害を受けているが、更に翌年、4ヵ国(英・米・仏・蘭)は連合艦隊を組織して報復のため下関に来襲、長州藩は存亡の危機に直面することになる。

🔘毎朝歩く健康公園に隣接して「小束山(こずかやま)県有林」がある。中に小道が有るようで一度入ってみたい。