厚狭毛利家代官所日記㉜文久3年(1863)③

6月15日のこのブログ番外編で書いたように文久3年5月10日攘夷(じょうい・外国船討ち払い)実行期日に、下関での実行責任者であった厚狭毛利家当主・毛利能登はその不手際をとがめられ謹慎処分、後任には厚狭毛利家嗣子・宣次郎が就いて攘夷戦の指揮をとることになる。
この頃の代官所の記録を現代文に直す。

5月11日
・昨夜赤間関(下関)にて異船へ大砲を打ち懸けたとのこと、不穏の評判、長府、清末(ちょうふ、きよすえ何れも毛利の支藩)は鐘をつき法螺貝をふき、駅々注進の早駕籠(はやかご)や早馬が櫛の歯を引く(頻繁に往来するさま)如く、依って即刻 士(さむらい)二名をお伺いの為赤間関へ差し越した。

赤間関よりさむらい飛脚の為、熊谷滝三郎(厚狭毛利家家臣)到着、御用状の趣は、昨10日7つ半時アメリカ蒸気船一艘係船致している処、庚申丸(こうしんまる・藩船名)へ中嶋剛蔵(船長)乗組そのほか壮士の者達がみだりに砲発致し、折から癸亥丸(きがいまる・藩船名)下りかかり、庚申丸と共に追い打ち3発づつを異船に打ち当てたとのこと。
御一手においては鎮静にしておくよう指示されたが、その次第は(飛脚で)更に到来するとのことである。

5月12日
・今朝より諸士足軽中間(しょしあしがるちゅうげん・武家に仕える3階級)20人余りを赤間関へ送り出した。併せて草鞋(わらじ)馬の轡(くつわ・馬の口に咬ます金具)などを送り出した。

5月14日
・萩よりさむらい飛脚として河井徳五郎(厚狭毛利家家臣)到着、御用状の趣は、昨日急な御用につき若旦那様(宣次郎)山口御屋形へお召しに相成り、御親類衆の両人も昨夜7つ時よりお出でになった。
山口より直ぐ様赤間関へ御出張になるかも知れないと申し来た。
・同じことを赤間関へさむらい飛脚を以て申し越された。
こちら(厚狭)にてもそれぞれにそのご用意を仰せ付けられた。

5月15日
・若旦那様山口御屋形に於いて赤間関総奉行旦那様(毛利能登)御代わりを仰せ渡しになった、皇国の為忠節をお勤めするようにと仰せ蒙られた。
・旦那様ご遠慮を蒙られたこと、益(田)弾正(萩毛利藩家老・益田右衛門介)様より御親類の口羽須磨殿、佐竹三郎右衛門殿へ仰せ渡された。
赤間関へ行きこの段を申し上げ、萩に帰り御宅で謹慎するようにと仰せ渡されたとのこと、案外千万のことで恐れ入ったことである。
・若旦那様今暁8つ時山口を御発鞍(馬で出発)にて赤間関へ御出張されると連絡があったことについて、(途中の)舟木駅で御待ち受け御用意の為、来原甚右衛門(厚狭毛利家家臣)を同駅に出張を仰せ付けた。

☆以後、5月16日毛利宣次郎の赤間関着任、5月17日毛利能登の萩帰宅謹慎まで、厚狭毛利家では涙ぐましいほどの慌ただしい主人達をフォローする毎日が代官所日記に記録されている。

☆本藩の分家である厚狭毛利家当主が「謹慎」を受けるという厳しい処置であるが、その出先当主への申し渡しは親類二家の当主を介して伝えるという、格式を尊重した対応が取られているように思われる。

☆当時長州藩全体が臨戦体制を取り始めており藩主と世継ぎは萩城から交通至便の山口に移っていた。

🔘赤間関(下関)と厚狭はいわば目と鼻の位置関係にある。この地理的な条件が、「戦場に最も近い領地を持つものが戦いの先陣を担う」という武家の原則に則り厚狭毛利家当主を「赤間関海防総奉行」に就かせたといえる。

このことが当時の厚狭の村々を否応なく戦の渦中に巻き込んでいくことがわかる。
庶民から見ると当時の異国船は現代からは想像もつかないような恐怖の対象であり、厚狭の人びともまさにその渦中にあったと考えられる。

🔘健康公園 樹木シリーズ
これはイロハモミジらしい、少しだけ色付いている。
全体に真っ赤になっていくのだろう。