厚狭毛利家代官所日記㉙文久3年(1863)①

長州藩や厚狭毛利家にとって文久3年は幕末から維新へと続く激動の時代の幕開けともいう年に当たる。

3月、14代将軍・徳川家茂(いえもち)は入京して孝明天皇に会い攘夷(じょうい・外国船打ち払い)の勅(ちょく)を受けた。
その後幕府は現実問題としての諸外国の圧力、軍事力などに悩みつつ、やむを得ず攘夷実行期日を5月10日とする。

長州藩はこの攘夷実行方針を受け他に先駈けて下関海峡で外国船打ち払いを実行に移すことになる。

当時「赤間関(下関)海防総奉行」を拝命し打ち払いの責任者の立場にあったのが厚狭毛利家当主・9代毛利能登(元美・もとよし)で4月15日萩城中に於いて藩主より(当時元美は病気で代理の養子(異母弟)宣次郎が登城)軍令を受け下関出張を直命された。
能登は24日下関に着、本陣を伊崎会所に置いた。
(この時毛利能登が指揮下に置いた一手は長州藩士、厚狭毛利家臣など士分91人、軽卒254人、従者・夫役等を入れて総勢657人)

以下関連する民政について代官所日記の記録(現代文に直す)
4月14日
・農兵を一存内(そんない・庄屋の管轄内)に10人宛て稽古(軍事訓練)するよう吉田宰判から沙汰があったと届けがあり評議の上沙汰通り差し出すよう下厚狭の郡、下津両庄屋へ指示した。

・鉄砲所持の者並びに猟師の人数を付け出すよう同じく沙汰があったが(厚狭毛利)領内は鉄砲猟師は法度であり何れも無しと届けるよう両庄屋へ指示した。

4月17日
・旦那様異国船について手当てされるべく俄に赤間関ご出張、来る19日萩を出発されるとのこと飛脚を以て知らせがあった。(実際には23日に延引)

・同件についてお供並びに待ち受けの人数等それぞれ然るべき筋より沙汰があった

4月23日
赤間関へ出張の諸士並びに足軽中間今五つ時役所(厚狭毛利居館)へ相揃い(軍令を)読み知らせられた。
四つ上刻梶浦にて乗船九つ時出帆、同所まで見送った。
(別資料に依ればこの時の出立総勢70名)

・旦那様今朝萩を出立して赤間関へお越しになる。吉田まで明朝諸士50人下分(足軽以下)20人罷り出てお供するよう俄に萩より連絡があり急速に触れを出し地方(じかた)へも沙汰した。

・同件に付き早速受けて士45人足軽4人中間23人乗馬4匹(口付け4人)今夜九つ時一応役所へ相揃い7つ時より吉田駅へ差し出した。

🔘主人が戦時の責任者になるとその家中に大きな負担がのしかかる様がよく分かる。
🔘当時厚狭毛利家家中では当主を旦那様、世継ぎを若旦那様、萩本藩の藩主を殿様、世継ぎを若殿様と呼んでいた。

🔘健康公園から東を見ると特徴的な山が。