「古代史の基礎知識」と「古墳」/ 厚狭の前方後円墳

吉村武彦編「新版 古代史の基礎知識」角川選書と土生田純之(はぶたよしゆき)著「古墳」吉川弘文館 刊を読み終えた。といっても「古代史の基礎知識」の方は古墳の部分に限定して読んだのだが。

元々歴史好きながら古代史は余り興味がなく、中世以降をもっぱら関心の対象にしていたが、今年9月9日と12日にこのブログで2回に分けて「ふるさと厚狭の前方後円墳」を書いたこともあり、この内容と古墳に関する基礎的な知識を擦り合わせ再確認しておこうと思い図書館で借りてきた。

厚狭で今まで発掘された前方後円墳長光寺山古墳」は四世紀後半の築造と推定され全長約58m、「妙徳寺山古墳」は推定5世紀後半の築造で全長約30mである。

長光寺山古墳」の時期はヤマト王権の巨大古墳が奈良盆地から大阪平野に移動して行く時期と重なる。

ヤマト王権は国家を形造っていく過程で様々な手段で地方の首長達に影響を及ぼそうとしたが例えば、三角縁神獣鏡(さんかくぶちしんじゅうきょう)の配布、古墳築造規格の教示とランク付け、などである。

これらを通じ、王権と地方首長、首長同士間のネットワークや階層化が出来上がる。

長光寺山古墳」と同時期(古墳時代前期)に築造されたと考えられる山口県内のより大きい前方後円墳を見ると柳井茶臼山古墳のみであり、厚狭川河口域の首長は当時周辺でもかなり有力な人物で、副葬品に三角縁神獣鏡もあることからヤマト王権のネットワークに組み込まれていたと考えられる。

また副葬品に鉄剣、鉄刀、鉄鏃(てつぞく・やじり)が多いことからもヤマト王権との強い繋がりを示すと共に被葬者は武人ではなかったかと思わせる。

妙徳寺山古墳」の築造時期は、5世紀半ばに生じた鉄器生産の変革とそれによる生産力の飛躍的向上が現れる時期に当たり、古墳時代の中期と後期を画するとされ地方首長系譜の固定化、中央への服属強化が推進される。

この時期以降古墳の副葬品には装身具が顕著になると書かれているが、「妙徳寺山古墳」の副葬品にも、長光寺山には無い装身具用と見られる勾玉(まがたま)、管玉(くだたま)が多数発掘されている。

妙徳寺山古墳」の大きさは「長光寺山古墳」に比べて小さいが、5世紀後半の時期に築造された山口県の他の古墳も例外の一基を除きおしなべて小さく、地方首長の古墳の大きさはその当時の王権が強力な場合は縮小する(規制される)という影響を受けているとも考えられ、「長光寺山古墳」の被葬者に比べ権力基盤が弱くなっているとは言えないことが分かった。

何れにせよ「妙徳寺山古墳」と「長光寺山古墳」は築造時期に約1世紀の隔たりはあるものの、場所的には1.5kmしか離れていないうえに厚狭川を隔てて向き合う形になっていることや、妙徳寺山古墳の被葬者が16~18歳と推定されている点は未知への興味を掻き立てられる。

🔘今日の一句

 

靴下とズボンの隙に冬立ちて

 

🔘施設介護棟屋上庭園のモクビャッコウ(木白香)