岸 信介「日米安保条約と私」

中学同級生から山口県の郷土資料を同窓会にハンドキャリーして貰った中に、郷土出身の元総理大臣・岸信介氏の書いた「日米安保条約と私」と題した本人の回顧文のコピーが入っていて、興味を持って読み終えた。

これは昭和57年(1982)に出版された本「証言の昭和史」の中の一節とのことである。

昭和35年(1960)岸信介内閣での日米安全保障条約改定は、当時11歳であった私の記憶にもまだ残っている「安保反対」の掛け声が象徴するように、日本全体を巻き込むような政治運動の盛り上がりであった。

特にデモ隊と警官隊が国会内で衝突し東大女子学生が死亡した事件は、マスコミなどで大きく取り上げられ新聞一面の大見出しはおぼろげながら記憶にある。

後に自分なりにこの時の改定内容を知り

・旧条約では明記されない在日米軍の日本防衛義務が明記されるなど片務的なものから相互性を備えるものになった。

自衛隊の海外派兵禁止など、憲法や国内規範にも合うように配慮されている。

等々の内容からなぜこれほどの反対運動になっていたのか理解に苦しむ部分があった。

岸信介氏の回顧も、改定の経緯を語るなかで「この条約改定が日本にとって必要なことである」という信念は全く揺らいでおらず、吉田松陰が好んだと伝わる、孟子の一節

「自ら顧みてなおくんば千万人といえども吾往かん」

を彷彿させるものがあり、郷土の大先輩への身びいきが混じっているかもしれないが、この信念が今日まで続く日米安全保障条約の基礎を作ったとも言えるのではないだろうか。

岸氏はこの改定を振り返り「それにしても今日でも残念に思っているのは、解散して国民に問いかけなかったことである」と書いており、解散出来なかった経緯や強行採決に至った経過を書いている。

何れにせよこの改定に際し、もう少し国民にその内容詳細の理解を求める方法はなかったのかは大きな反省点かもしれない。

当時反対運動をする側もきちんと条文の詳細を読み込んでいたのかは疑問の残る点である。

岸信介氏は太平洋戦争開戦時東條内閣の商工大臣であったため戦後公職追放などを受けており、その経歴などが反対運動が盛り上がった要因のひとつになっていたのかも知れない。

🔘今日の一句

 

渋抜きの柿の如くに吾渋も

 

🔘健康公園、画像検索ではアラセイトウとなっている。