「日米開戦不可なり」~ストックホルム 小野寺大佐発至急電~

毎年12月8日になると昭和16年(1941)12月8日の真珠湾攻撃による日米開戦・太平洋戦争を思い出すが、なぜ無謀としか言い様のない戦争に踏み切ったのか繰り返し考えさせられる。

今年の12月8日に再放送され録画していたのをようやく観終えた、1985年にオリジナル放送されているNHK特集「日米開戦不可なり~ストックホルム小野寺大佐発至急電~」は、私個人にとって以下2点の通り忘れられない番組になった。

・今年のTV放送のなかで私の一番の収穫。

・冒頭の「なぜ?」に半歩近付けた。

1985年当時は、小野寺信(おのでらまこと)元大佐(終戦時・少将)とその仕事を暗号担当として支えた妻・百合子さんが生きておられ、それぞれのインタビューと独自取材が混じった番組で実に得難いものを見せてもらった気がする。当時この番組は放送文化基金賞本賞を受賞したとのことである。

小野寺氏はロシア語に堪能で各国に駐在し対ソ連諜報活動に従事、開戦前夜の昭和16年当時スウェーデンストックホルム駐在武官として勤務、ソ連から圧迫を受けていたポーランドフィンランドバルト三国等の諜報軍人や民間人と独自の情報網を築いた。

これらの情報からナチスドイツが英国本土ではなくソ連に侵攻することを察知し、更に進攻後冬を目前にして劣勢になっていることを突き止め、ナチスドイツの勝利を前提に対米戦争を組み立てている参謀本部に「対米戦争は不可」との電報30通を送り続けた。

この電報を黙殺した参謀本部は太平洋戦争に突入する。

戦争末期の1945年2月米・英・ソの連合国首脳が、戦後の世界秩序を討議したヤルタ会談でのドイツ降伏後のソ連の対日参戦密約も察知した。

参謀本部に打電するも、本国は対米戦争の終結交渉の仲介をソ連に縋るつもりでこの電報を無視、満州の悲劇に繋がる。

各国の機密資料を紐解くと、敵連合国側で最も評価(要注意)されている日本の諜報軍人は本国に情報電報を無視され続けた小野寺氏というのも興味深い。

ナチスドイツが優勢だとの誤った情報を日本に送り続けた当時の駐独大使・大島浩は戦後の東京裁判A級戦犯として無期懲役となった。(1955年保釈)

日本(の指導者)は自らに有利な情報のみに頼り、世界情勢を客観的に見る視野に欠けていたと言わざるを得ないし、「人は自分が見たいものしか見ない」という言葉が今更ながら真実を突いているような気がしてくる。

約半世紀前にこんな良質な調査報道番組が作られたことが驚きでもある。それだけ日本には太平洋戦争を「なぜ?」と思う人が多いのだろう。

 

【花有りて 懐メロ想う 冬の園】

 

🔘施設の介護棟の庭園、画像検索で調べた結果ではエリカの仲間と思われる。

エリカと言えば西田佐知子さんが唄った懐かしい「エリカの花散るとき」

これを最初に聴いたのははるか昔のことながらその詩と歌声に感動した記憶がある。