山口県地方史研究・吉田松陰が幕末長州藩政治に与えた影響について

山口県地方史学会の会誌・「山口県地方史研究第130号」に掲載されている内の二つの興味ある研究のもうひとつ、萩市 相島宏美氏の「吉田松陰が幕末長州藩政治に与えた影響について」を読ませて貰った。

吉田松陰が、安政6年(1859)安政の大獄で処刑され29歳の生涯を終えた。藩校・明倫館や松下村塾での彼えの教えや著作を通じて、松下村塾系といわれる人々に影響を与え、それが維新への起爆剤のひとつとなったことはよく知られている。

この研究は副題であるー「破約攘夷」に着目してーとあるように主として文久年間(1861~1863)を対象にして、天皇の意思に背いて安政5年(1858)締結された日米修好通商条約を破棄(破約攘夷)するという松陰の思想が長州藩の藩是として統一されたプロセスを追跡している。

松陰は開国通商することを重視しつつ、外国との戦争を恐れ天皇の意思に背く形で締結した条約は破棄すべきで、これを進めた幕府老中などの奸臣を除くべきという考えであった。

この思想を受け継ぐ高杉晋作久坂玄瑞井上馨吉田稔麿などは文久2年(1862)「攘夷血盟」グループを結成し英国公使館焼き討ちなどの過激な行動を取るようになる。

一方藩では松陰と親しかった益田弾正が当役(家老職)に就任、周布政之助がそれを補佐する体制が出来上がっていた。藩首脳はそれまでの方針であった公武融和、開国をもとにした航海遠略策を転換、「破約攘夷」として藩是を決定する。

ここに吉田松陰の思想と藩の方針行動が一致することになる。

ただ周布達藩首脳部は最終的には開国通商を意識しており、この時期から現在「長州ファイブ」と呼ばれる伊藤博文井上馨、井上勝、山尾庸三、遠藤謹助をイギリスに密航留学させている。

何れにせよ長州藩はこの藩是のもと、文久3年(1863)から元治元年(1864)にかけて下関外国船砲撃、禁門の変など火の玉となって滅亡寸前まで突き進み、その後の再生と倒幕へ繋げて行く事になる。

🔘今日の一句


時雨避けカフェにひとりが心地よく

 

🔘健康公園、アメリカ楓(フウ)の実