長州藩士・村田清風(むらたせいふう)

住んでいる地域のゴルフ練習場が閉鎖されたため比較的近い大阪市の練習場に通うようになり、そこに来られている方々と知り合ったが、そのきっかけになったお一人が村田さんで私のブログを見て長州藩村田蔵六(大村益次郎)のことを語られた。

そこで大村益次郎のことを書かせてもらおうと思ったが以前既に適塾のことなどで触れており断念、しかしよくよく考えると村田姓では長州藩には村田蔵六以上の重要人物・村田清風がいて、これも何かの縁と思いこのブログに書いておくことにした。

長州藩では天保2年(1831)全国的に見ても有数の、藩を揺るがす天保一揆が起こり多くの犠牲者が出たが、これが藩中枢の危機感を呼び起こし長州藩天保改革に繋がる。
ちなみに厚狭毛利家当主・元美(もとよし)はこの一揆鎮圧惣奉行(そうぶぎょう)を拝命した。

この一揆は幕末の藩主で「そうせい公」と陰で呼ばれた毛利敬親の藩主就任と同時期であり、敬親は藩の中核階層・大組士(おおくみし・馬廻り組)の村田清風(1783~1855)が上申した改革プランを取り上げ、抜擢してこれに当たらせた。

その改革の要点は
・当時の藩の負債は年間通常経費の20倍以上で、先ず倹約令で支出の抑制と長期返済計画を策定。
・農民政策では年貢徴収方法の改善等での生活安定化。
民間信仰の整理解除と村落秩序の強化。
・下関に越荷方(こしにかた)を置き、倉庫や資金を提供して西周り航路の荷物を集積し、大阪市場の状況に応じて出荷して利潤を得る。
・海防政策の発出と海防大操練(軍事演習)の実行、この時厚狭毛利家当主・元美は一番備え頭(いちばんそなえかしら・先鋒大将)を拝命。

この村田清風を中心とする天保改革はその思想を受け継ぐ周布政之助(すふまさのすけ)による安政改革に繋がる。
長州藩は公称36万石ながら幕末には実質100万石の実力といわれ、この経済力が維新回天の原動力になったが、この源は村田清風の改革に有るとも云える。

また村田清風の後継とも云える周布政之助吉田松陰が主宰した松下村塾系(塾生や賛同者)の人々、高杉晋作桂小五郎久坂玄瑞伊藤博文、等々の庇護者といってもいい立場を取っており村田清風の思想は明治維新に繋がっている。

平野川の河岸に張り付いて健気に頑張るヒメツルソバ
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