「明治国家をつくった人びと」

瀧井一博著「明治国家をつくった人びと」講談社現代新書 刊を読み終えた。

幕末から明治にかけて西洋の文物を導入して、それを制度化することによって自立し、国際社会の一員になることは当時の国家的願望であり、藩閥政府、在野の民権指導者達の共有するところであった。

これらの指導者層が洋行、留学、視察などの具体的接触のなかで、いかなる西洋感を抱きそこからいかなる日本の国家像を描いたのかを問いかけるのがこの本の主題と思われる。

この本に登場するのは日本人に相対した外国人、藩閥政府の要人、旧幕府側であった学問の指導者、明治天皇と多岐にわたるが最も紙数を割いているのが伊藤博文である。

著者はその伊藤について『明治国家とは、明治の立憲君主国家とは、まさに伊藤博文の芸術作品だったと云えよう。伊藤は国民統合の表象たる主権者天皇と制度化された立憲君主としての天皇という「二つの身体」を見事にデザインし、構築した』と書かれている。

伊藤が西洋と初めて接したのは、攘夷運動のさなか長州藩が国禁を顧みず五人の長州藩士をイギリス留学に送り出したいわゆる〈長州ファイブ〉の一員としてであり、今日その壮挙は極めて多くの人が知り評価が高く映画化もされている。

彼らは留学前は徹底した攘夷派だったが海を渡った時点で実状を目で見て開国派へと変身していく。

長州ファイブが出国した文久三年(1863)は長州藩が下関海峡で外国船を砲撃した年でありこの時期に彼らの派遣に尽力したのはあまり世間には知られていないが当時の長州藩の実力者・周布政之助(すふまさのすけ)であった。

周布はその派遣の意義を凡そ次のように語ったといわれる。

《長州は(国を動かす)人の器械を求めている。今尊皇攘夷は世論のおもむくところだが、それは日本の武を西洋に示すのみである。この後必ず各国との交通の日が来る。その時西洋の事情を熟知しなければ我が国の不利益になる。依ってその時に用いる器械として英国に派遣したく思う》

周布は吉田松陰を含む高杉晋作など松下村塾に連なる人々の庇護者でもあり、その先見性は見事と云う他ない。周布は藩内抗争等の責任をとり自刃するが維新迄生き残って欲しかった人材の一人であった。

長州生まれとしてはこの本のお蔭で同郷の先輩に光を当ててもらい感謝している。

🔘一日一句

 

海峡を越えてひたひた秋の潮

 

🔘施設の庭、隠れて咲いてるユウゲショウ(夕化粧)