慶応2年から3年にかけては長州藩も日本も激しく動いた年であった。長州藩では幕府の大軍を四つの国境(くにざかい)で迎え討った四境戦争を何とか乗り切り休戦に持ち込んだ。
その背景には慶応2年の以下の出来事があり、慶応3年の明治天皇の践祚(せんそ)につながる。
・8月20日徳川慶喜15代将軍に就任
・8月21日孝明天皇長州征伐休戦の勅命を下す
慶応3年1月7日の代官所日記の記録
『禁裡崩御二付御国中鳴物音曲停止被仰付候段御到来有之候、地方及触候事』
(天皇が崩御されたので長州藩内では音曲や鳴物等を禁ずるよう藩から指示があった、村々まで徹底すること)
🔘この時代朝廷や天皇のことを地方の村々まで触れるということは極めて珍しい貴重な記録と思われる。
実際の崩御は12月25日のことなので約2週間経過してお触れが廻って来たことになる。
長州藩は尊皇攘夷運動の時期から朝廷と関わりを持ち、この四境戦争の時には朝敵として孝明天皇から幕府を通じて征伐を受ける立場であった。善かれ悪しかれ天皇の死から大きな影響を受ける立場にありこのお触れはそのような時代を表すひとつとも云えるように思われる。
🔘当然のことながら当時は敵対関係にある同年7月20日の将軍家茂の死は日記には全く出てこない。
【小鮒釣り想い出(い)ずるや水の春】
🔘健康公園のクロガネモチの紅い実