下関攘夷戦争と「陥穽(かんせい)」

孝明天皇の強い意向を受け徳川幕府十四代将軍・家茂は外国船を打ち払う攘夷実行期日を文久3年(1863)5月10日と奉答、布告した。

当時これを実行出来るとは誰も思ってないなか、唯一長州藩では当日関門海峡を通過する外国船を砲撃、下関攘夷戦争の始まりであり、これ以降長州藩は内外全てを敵として藩滅亡寸前まで突き進むことになる。

作家・辻原登さんが、不平等条約改正を成し遂げ刻苦勉励の鬼といわれた陸奥宗光を描いて、日経新聞に連載されている「陥穽(かんせい)・陸奥宗光の青春」では、現在、主人公・陸奥小二郎(宗光)は勝海舟坂本龍馬の知遇を得て神戸海軍操練所の開設などに向け活動している。

そこに長州藩が下関でアメリカ商船を砲撃した知らせがもたらされる。この時の勝海舟坂本龍馬の発言描写が世間の知識人の長州を見る目を表しておりとても興味深い。

坂本龍馬桂小五郎不在の京・長州藩邸を訪ねて

『米船をやったら、英国どころじゃ済まんぞ。生麦事件で、英国がどれだけ幕府と日本を苦しめているか。今度は賠償金だけでは済まん。ペリーの脅かしを思い出せ。長州をそっくり差し出せと言い出しかねんぞ』

勝海舟が戻った龍馬に開口一番に

『(以前面会したときに)桂が言った通りだな。しかしぴったり5月10日とは何て律儀な奴らなんだ!』

・更に長州がフランス艦にも砲撃したとの知らせに

『長州のやつばら、またやってくれた。彼らは連合艦隊の怖さを知らんのだ。世界の海を股に掛けて戦争を仕掛け、占領して権益を独占しようとしている連中だぞ。』

下関はふるさとのすぐ隣にあることから、厚狭毛利家当主がこの下関攘夷戦争の総奉行を拝命しており私も思い入れが深くブログにも書いてきた。

龍馬の言葉通り長州藩は火ダルマになり滅亡寸前まで往くが「一寸の虫にも五分の魂」の言葉にあるように、この行動が内外に長州人の気概を知らしめたのは間違いなく、その財産が戊辰戦争を経て明治維新に至る道を切り開くことにつながったと考えている。

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