野村望東尼(のむらぼうとうに)と高杉晋作のことなど

山口県在住の同級生から防府市にある野村望東尼の墓所を訪れたことの連絡をもらった。
望東尼が三田尻(現在の防府)で亡くなったのは初めて知ったのだが、以前から長州藩回天の立役者・高杉晋作の恩人であることは知っており、この機会にこのブログで少し触れさせてもらうことにした。

作家・司馬遼太郎さんが幕末長州藩吉田松陰をはじめとする志士たちの群像を描いた「世に棲(す)む日日」では望東尼のことがこのように書かれている。

【九州福岡城外の平尾という地に小さな丘がありその中腹に森を背負った一個の別荘がある。そこに女流歌人が住んでいる、ーーーーー野村望東尼のことである。
名をモトといった。福岡藩士の三女で早くから才色の聞こえがあったが、夫 野村新三郎(福岡藩馬廻役)の影響で国学と歌道をまなび、さらには夫から勤王思想の影響をうけた。
ーーーーーやがて新三郎が死に、モトは髪をおろして尼になり、この山荘を庵(いおり)としてすみ、婦人ながら憂国の歌をつくるうちにひろく知られるようになった。
かつて安政大獄で幕府の追捕(ついぶ)をのがれて九州にへきた僧・月照(げっしょう)をかくまったのをはじめとして、その種の行為が多く筑前福岡にゆけば望東尼を訪ねよ、と諸藩の奔走家からいわれるようになった。】

長州藩では松下村塾系を中心にした正義派(尊皇攘夷派)主導で行った
文久3年(1863)5月10日下関海峡の外国船を砲撃
・元治元年(1864)7月19日禁門の変で御所を攻撃
等により元治元年8月、第一次長州征伐、四ヶ国連合艦隊の下関砲台占領など内外から反撃を受ける事になった。

このため藩政府員が交代し俗論派と呼ばれる幕府に従うことを唱える者達が権力を握り、正義派への粛清が始まる。
高杉晋作はこれを逃れて九州に渡り望東尼に匿われる。

この後高杉晋作は下関に立ち返り長府の功山寺で少人数で挙兵、奇兵隊など長州諸隊を味方に付けて藩政府軍を破り藩論を統一して四境の役(しきょうのえき・第二次長州征伐)を勝ち抜き、長州藩は以後一貫して倒幕へと向かう事になる。

福岡では藩が保守派に傾いた事から野村望東尼を唐津湾の姫島に島流し処分にした。
これを知った高杉は同志を語らい島を襲って望東尼を救出して長州に迎えその恩に報いた。

高杉晋作結核を患い慶応3年(1867)4月14日志半ばで死去するが野村望東尼もこの臨終に立ち会っており、高杉が詠んだ有名な辞世
〈おもしろき こともなき世をおもしろく
すみなすものは 心なりけり〉
の後半は力が尽きた晋作に代わり望東尼が付け加えたとされる。

長州藩はこの後も望東尼を厚遇したが、高杉と同年の12月1日に死去している。
高杉晋作が九州から帰り挙兵出来たことが長州藩の大転換点になったことからすると、野村望東尼は長州の恩人のひとりとも云えるかもしれない。

尚、司馬遼太郎さんは「ぼうとうに」ではなく「もとに」と表記されている。

◎道ばたで必死に生きているのはノボロギクのようだ。