日本外交の祖・陸奥宗光との縁

私の本を送ったなかでいろいろと反響を頂いたが、同級生の一人から手紙とメールを貰い、その中に、母方が紀州の出自で陸奥宗光(むつむねみつ)と縁があったと書かれてあった。
陸奥宗光は日本外交の基礎を築いたとも言える人物で外務省にその像が立つ)

文中に宗光は養子であるように記されていたが、私の記憶からするとそんなはずは無いなと思い否定しておいた。
こんな経緯があった後で、いつも行く近くの図書館で本を捜していたところ、その陸奥宗光を書いた本にたまたま廻り合い、借り出して読み終えた。
佐々木雄一著「陸奥宗光 日本外交の祖の生涯」中公新書である。
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先ず私が気になっていた「養子問題」だが、結論的にやはり私の記憶が正しく養子になった経歴はない。

宗光は紀州藩士伊達家の生まれで父の政治的失脚により雌伏の少年時代を送り、江戸へ出た後勝海舟坂本龍馬と知り合い海援隊を経て倒幕運動、新政府出仕と繋がる。

この間伊達小二郎を始めにして色々な名前を用いるが、史料上最初に陸奥姓が現れるのは慶応2年(1866)10月3日付け、薩摩藩からの手当受領証で坂本龍馬など7名の中に現れる陸奥元次郎で、後に陸奥陽之助に一本化される。

陸奥の名前は、実家の伊達氏が源頼朝から陸奥国伊達郡を与えられて伊達氏を称したことに由来すると書かれているがこれは私の推測と合致している。

同級生の手紙にあった陸奥宗光の養子説についてヒントがこの本の中にあった。

陸奥宗光の父伊達宗広は婿養子で最初の妻は伊達家の娘、その最初の妻が亡くなると後妻を迎えこれが宗光の母である。

伊達家の血を引く最初の妻との間には娘が2人おり、長女に婿養子宗興を迎え跡継ぎとした。これを藩に届ける際
今後男子が誕生しても嫡子としないことを約した。

こういった実家伊達家の2代に渡る養子相続の経緯が、
宗光の養子説の出どころではないかと考えられる。

私的なことでこの本の本旨から外れてしまったが、薩摩・長州・土佐・肥前のいわゆる藩閥の外にありながら明治の最初の戦役「日清戦争」を巧みな外交力、政治力でリードした人物の全体像を充分知ることが出来た気がする。

また私のふるさと山口県旧山陽町が輩出した唯一の大臣、外務大臣青木周蔵陸奥外務大臣の時代、外務省で部下であった時期があり、方針の違いから色々な軋轢があったことも分かった。

著者は前書きで「権力のなかに生きた知性を活写したいというのが本書の狙いである。」と述べている。

◎歩きの途中で見つけた小さな花
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