幕末雄藩列伝④加賀藩

以前同級生から何かの拍子に幕末維新に「加賀百万石は一体何をしていたのか?」と聞かれたことがある。

その時大きいからと言って変革に対応出来る能力があるとは限らないと答えた気がする。

戦国時代織田信長の家臣で豊臣秀吉の同僚でもあった前田利家を祖とする加賀藩・前田家は、支藩の富山、大聖寺を含めて加賀(石川県)、能登(々)、越中(富山県)の三国を領して119万石という断トツの大藩であった。

NO2が薩摩島津家の72万石、NO3が仙台伊達家の62万石でありその所領の大きさは他を圧していた。

幕末の舵取り十三代斉泰(なりやす)は将軍の娘を正室にしていたこともあり一貫して幕府寄りの姿勢を取り続けていた。

次代世子・慶寧(よしやす)は尊皇攘夷思想の影響を受けその側近にも尊攘派とも云うべき人材が集まり長州藩の関係者とも繋がっていた。

長州と幕府が「禁門の変」など京都を舞台に戦った際もその調停に尽力したものの、長州が朝敵になると斉泰は幕府寄りの立場を鮮明にして、重臣を介して多くの藩内の尊攘派を粛清弾圧しその息の根を止めてしまった。

斉泰が慶応2年(1866)退いた後、慶寧が跡をついでも佐幕派重臣が居座る状況だったが、慶応4年(1868)鳥羽伏見の戦い薩長側勝利するとようやく新政府追従路線に転じたものの出遅れ感は否めず、また薩長へ繋がる人脈も全く無くなっていた。

第一の大藩でありながら維新後加賀藩出身の大臣クラスは皆無であり、危機を乗り切るに当たり折角出来ていた一方の道を自ら完全に閉ざしてしまうことの危険性を加賀藩は教えてくれている。

著者の伊東潤さんは加賀藩を評し

「何事も腹を決めることは大切だ。しかし一方の道を完全に閉ざしてしまっては、もしも賭けに敗れた場合、損失は限りなく大きくなる~~幕末という変革期、確かに大藩の舵取りは難しかった。だが多くの藩士と家族の将来が懸かっているのだ。結果論でなく斉泰は二股を掛けておくべきだった」

と書いている。

 

🔘健康公園では紅葉が徐々に始まっているが、樹によって紅とはいってもそれぞれ色が違い多様な個性を発揮している。

 

【秋の野は  赤、紅、緋(あか・べに・ひ) 色  丹、朱(に・しゅ)までも】