「山口県地方史研究」・大村益次郎

幕末長州藩周防国(すおうのくに)鋳銭司(すぜんじ)村(現在山口市)の村医者の子として生まれた村田蔵六は豊後(ぶんご・大分県)日田の広瀬淡窓(ひろせたんそう)に漢学を学び、大阪に出て緒方洪庵適塾蘭学を学び塾頭、その後、宇和島藩主・伊達宗城(だてむねなり)の招きに応じ出仕、更に幕府にも召し出され講武所教授も勤めた。

機会を得て生涯の盟友・長州藩桂小五郎と知り合い、曲折を経て長州藩に帰り藩命で大村益次郎と改名、長州藩兵学教育、軍制改革の指揮を取り、幕府の大軍を相手に、第二次「四境の役(しきょうのえき)」を乗り切ると共に、戊辰戦争(ぼしんせんそう)全般を指揮して明治維新の立役者の一人となった。

その後徴兵制を基本とする明治の兵制改革を進めるなか、旧士族の反発を受け暗殺に倒れた。
この生涯を司馬遼太郎さんは短編「鬼謀(きぼう)の人」長編「花神(かしん)」に書き、「花神」は大河ドラマにもなった。
書棚から探し出した昭和45年(1996)に購入した「鬼謀の人」
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私は歴史については全くの専門外ながら興味はある方なので、ふるさと山口県の「山口県地方史学会」に入れて貰っており定期的に情報連絡と機関誌をいただいている。

今回は第125号の機関誌「山口県地方史研究」が送られて来て、その中に三宅紹宣(みやけつぐのぶ)氏の「大村益次郎の政治思想」という研究が載せられている。
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その骨子は司馬遼太郎さんの小説などで大村益次郎は技術に没頭するものというイメージが流布しているが、実際には高い政治的見識を持って生涯を貫いた人物であるという内容になっている。

全てを書くことは出来ないが種々の裏付けを元にしたその一端は、
木戸孝允(桂小五郎)と大村益次郎の国家構想は、対外的危機に対応出来る強力な近代国家を作ることであった。そのため、(戊辰)戦争が終わったら、全ての勢力が協力して、一つの山をなす国家を作ることを目指しており、徳川・会津藩などに対し寛大な方針で臨もうとした」

明治2年(1869)9月京都で旧士族に襲われて床に就いた兵部大輔・大村へ兵部省の部下から、大村がいつも気に懸けていた会津藩の寛大処置が順調に進んでいるとの大村を励ます書簡が発せられている。

・世間には誤った説も流布しているが、当時の長州藩上層部の基本的な姿勢は敵だった会津藩などへ寛大な処置を求める事であった。

◎ボチボチひまわりの季節
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