四境戦争(第二次長州征討)

元治元年(1864)の第一次長州征討では長州藩が幕府に恭順する姿勢を示すことで解兵したが、その後長州藩では急進反幕の正義派主体の藩政府に変わり、それを察知した幕府は慶応元年(1865)第二次長州征討の動員令を各藩に発した。

幕府の大軍は長州の四境に迫り、長州藩は先にブログで書いたように軍制改革で整備した新しい藩軍で挙国一致して迎え撃ちこれを四境戦争と称した。

四境での戦いの概況は、

・大島口(周防大島)

慶応2年(1866)6月幕府軍艦が周防大島を砲撃することで事実上戦いが始まりその後上陸して占領し島を掠奪した。これを受け長州軍は海軍を動員砲戦を行いつつ第二奇兵隊を中心に逆上陸し島を奪回する。

・芸州口(安芸・広島)

この戦域では西洋式に装備した幕府歩兵隊が善戦し戦線は膠着した。広島藩浅野家は従来から藩論は長州寄りで幕府の出兵命令を拒否している。

・石州口(石見・島根)

この方面は大村益次郎が直接指揮をとったことで有名で、長州軍は中立的な津和野藩を越えて浜田藩領へ侵攻浜田城を落とし石見銀山も確保した。

・小倉口(九州)

幕府が動員した九州諸藩に対し、高杉晋作山県有朋などが指揮する長州軍は関門海峡を渡って九州上陸を果たして主導権を握る。幕府軍小倉城を自焼して撤退した。

🔘このように藩境の各地で長州藩が有利に戦いを進めるなか、7月20日大阪城で14代将軍徳川家茂が死去、跡を継いだ徳川慶喜の意を受けた幕府側・勝海舟長州藩広沢真臣井上馨との間で停戦合意が成立した。

 

🔘長州藩の軍制改革と防長一和、更には薩長同盟などの外交活動が成果となって表れた結果であり一方幕府の声望はこれで完全に地に落ちた。

 

🔘今まで道端の草は雑草としか思っていなかったが、それぞれに名前がキチンと付いていることに今更とは思うものの感心している。

 

【それぞれに  生きて名があり  草の秋】

 

公園の端で群生しているのはメヒシバと思われる。

一方これはオ匕シバと思われる。

左の2本がオシヒバで右2本がメヒシバ、同じイネ科でもオシヒバはメシヒバの仲間でなく単に茎が太くて強いので名が付いたらしい。

メシヒバは穂の辺りは毛のようになっている

オシヒバの穂には黒い胞子状のものがある