四境戦争に対応した長州藩の軍制改革と厚狭①

9月20日のこのブログで、第二次長州征伐(四境戦争)に向け元治2年=慶応元年(1865)長州藩内で「防長御一和・武備恭順」の藩論統一が成ったことを書いた。

同年4月19日幕府は第二次長州征伐の軍令を発し諸藩へ軍事動員を行った。しかし実際に幕府軍長州藩へ攻撃開始するのは翌年の6月からでその間幕府軍主要部隊は諸事情により大阪で足止め状況にあった。

この約一年間が長州藩が幕府大軍との直接対決に向けて急ピッチでその軍制改革を成し遂げる貴重な時間になった。(逆に言えば幕府は一年間を無為に成したことで自ら勝機を逃した)

この軍制改革を実質的に指揮したのが木戸孝允(桂小五郎)と大村益次郎(村田蔵六)である。

藩内の村医者出身の大村は適塾の塾頭を勤めたこともある洋学の先駆者の一人で、彼を長州藩に招いた一人が木戸で二人の友情は終生続いた。

これは政治を志向する木戸と軍事を志向する大村という分担とバランスが絶妙であったことに由来するのかも知れない。

木戸は藩政府が俗論守旧派主体であった時期、粛清を恐れ藩外に逃亡していたが、高杉晋作の挙兵により始まった内戦が、尊皇攘夷派=正義派勝利に終わり藩論が「武備恭順」で統一されると藩に戻り政事堂御用掛兼国政方用談役として藩の中枢に立つ。

大村は木戸の建言により藩の中核である大組士に任用、軍制改革の任に当たることを命じられた。翌年には軍政用掛兼海軍御用掛に任じられ藩の実質陸海軍大臣兼参謀長の役割を受け持つ。

これら指導者による慶応期の長州藩軍制改革は、兵員武器装備に圧倒的に差がある幕府軍から仕掛けられる戦争に対抗して生き残るため実行された、防長二州の士と民とで自らを西洋式軍隊に作り直す一大プロジェクトであった。

その具体的な内容について歴史家・柳澤京子氏が「戊辰戦争の新視点」吉川弘文館刊に寄稿されている「長州藩慶応期軍制改革と藩正規軍」を参考にしながら厚狭毛利家との関わりも含めて次回以降に書いていく。

【雨の朝   路に落ち葉の   裾模様】

【雨の朝    落ち葉模様を   描く路(みち)】

🔘今朝は雨模様で傘をさして歩いてきたが、誰も通っていない歩径路には落ち葉が散乱し、路を布地に自然の模様を付けているように見える。

 

【雨の朝    落ち葉模様を   描く路(みち)】