「暗殺の幕末維新史」②中山忠光暗殺②

11月12日の続き

天誅組の挙兵が失敗に終った中山忠光は幕府の追及を逃れ文久3年(1863)10月三田尻(みたじり・防府)に上陸、急進的な攘夷派として同調する長州藩に亡命した。

亡命を受け入れた長州藩では支藩長府藩に託し領内に潜伏させた。

元治元年(1864)7月「禁門の変」で京都から敗退した長州藩は朝敵となり、第一次長州征伐が発動された為、藩内は急進的な正義派が排斥され幕府に恭順を主張する俗論派が主導権を握ることになり、幕府から追われる忠光は藩の厄介者の存在になってきた。

この為幕府や本藩から指示された(と推定される)長府藩は刺客隊を送り込み忠光を誘い出して謀殺し、忠光を病死と発表、関係者に箝口令(かんこうれい)をしく。

その後長州藩は内戦を経て政権交代が行われ、藩是が幕府に対し強気の「武備恭順」に転じると、墓碑や祠を建てて祀った。

明治半ば頃から暗殺の事実が一部に知られ始めたが、忠光の姉・中山慶(よし)子は明治天皇の生母であり、長州藩は藩論の変遷の過程で天皇の叔父を殺したことになり維新史の汚点となった。

〈著者は「明治後長府毛利家が男爵に留まったのはこの忠光暗殺が影響している」と書かれているが、これはおかしいと思い旧知である長府の下関歴史博物館の学芸員の方に確認したところ、やはり長府毛利家は所領に応じた子爵に叙爵されていた〉

忠光には側妻があり後に女児・仲子を出産、東京の中山家で育てられ嵯峨(さが)侯爵家に嫁ぐ。仲子の孫・浩(ひろ)は満州国皇帝・溥儀の弟溥傑(ふけつ)に嫁ぎ後に「流転の王妃」と呼ばれ自伝やドラマ化され話題を呼んだ。

[明治に創設された華族制度の爵位は、上から公・侯・伯・子・男(こう・こう・はく・し・だん)の五段階]

 

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🔘施設の庭にちらほら咲き始めたのは椿だと思っていたら、山茶花(さざんか)だった。

葉の大きさで違いが簡単にわかることを守り人のおじさん(私と同じ名字だと分かった)に教えて貰った。(本来は花で見分けがつくらしいが)

小さいほうが山茶花で大きい葉が椿