厚狭毛利家代官所日記㊴元治元年(1864)③播州竜野藩とのつながり

元治元年の長州藩と云えば、これまで書いてきたように内にあっては「禁門の変」で京から敗走して「朝敵」になり、第一次長州征伐で幕府の大軍を迎え、外にあっては4ヵ国連合艦隊の下関砲撃を受け、内憂外患滅亡の縁に立たされた年である。

これを受けこれまで藩の主導権を握っていた尊皇攘夷派いわゆる正義派は沈黙退陣して、譜代老臣を中心とする俗論派(穏健派)が実権を握り厚狭毛利家当主も家老職に就いた。

この時期の代官所日記に播州竜野藩・脇坂家に関連して長い間理解出来なかったことが書いてあり、先日8月12日に「街道をゆく」から播州・脇坂家のことをこのブログに書いたこともあり、気合いを入れ直し調べてみてようやく意味の分かったことがある。

10月27日の記録(要約)

船木宿(ふなきしゅく・厚狭毛利領の山陽道本宿)目代(もくだい・宿場の長)波多野連蔵より代官所へ申し出があったこと。

・10月13日付播州龍野脇坂淡路守家中より、播州正条(しょうじょう)から長州小月(おずき)までの各宿場宛てとして以下の先触れ(さきぶれ・宿場に準備を指示する書面)があった。
・駕籠人夫など計4名と駕籠二挺を用意すること。
・これは江戸表お渡しの書状を長州長府迄持参するためで脇坂家中の2名が14日に播州龍野を出立する。
・人足など遅滞なく差し出すと共に次の宿場へ早々に順達廻文を頼み入る。(先触れの手配も含む指示)

(14日に龍野を出て27日に先触れが船木に着いたことから300km以上ある道のりを約14~15日程度かけており1日少なくとも20数kmを移動している事になる)

🔘この時期は幕府の長州征伐軍約15万人が長州藩領を取り囲むように集まりつつある時期であり、幕府譜代大名である脇坂家から長州支藩・長府へ江戸からの公けの書状が出ていることが不思議であった。

🔘当時の脇坂家当主は安斐(やすあや)で長州征伐に従軍中であった。
安斐は藤堂家出身の養子で、養父は日米修好通商条約締結などを担当した元幕府老中・脇坂安宅(やすおり)であり明治まで存命した。

🔘調べて見るとこの脇坂安宅の妻は長府毛利家出身(第11代毛利元義娘)であり、各宿場への先触れが公的なもののように見えることなどから、この書状は安宅が江戸から妻の実家宛て(義理の息子宛て)に出したもので、幕府の長州征伐に当たって長府藩に恭順と本藩・萩藩への斡旋を促すものではなかったかと思われる。

🔘当時の武家社会は連座制が基本で、大きな罪を犯すと親戚縁者にその罪が及ぶことも珍しくなかった。
元幕府の最高位・老中職の縁戚が朝敵の一員であることは様にならない事態であり、播州竜野藩は大慌てであったと想像される

🔘江戸時代街道宿場での負担は助郷(すけごう)役などが知られるがこの記録を見てもその負担が並大抵でないことが分かる。

【古文書の 疑問解けたり 西瓜食(は)む】

🔘屋上庭園の外周プランター